「地虫出づ」は、甲虫類のカブトムシやコガネムシ等の幼虫や、蛇や蛙などが、春先の温かさに誘われて地上へ出てくること。地上の春の始まりを感じさせる。
掲句は、戸外で腕まくりして自らの腕が目に入ったとき、改めて自身が父となったことを再確認したとの句意。折から子とともに戸外で過ごすことが増える季節であり、戸外では、自ずから父としての出番が増していくのだろう。この句のよろしさは、具象的に、「捲る腕」に焦点を定めたところ。子育て最中にある若き父としての作者の自画像である。『俳句四季』2026年5月号。
「地虫出づ」は、甲虫類のカブトムシやコガネムシ等の幼虫や、蛇や蛙などが、春先の温かさに誘われて地上へ出てくること。地上の春の始まりを感じさせる。
掲句は、戸外で腕まくりして自らの腕が目に入ったとき、改めて自身が父となったことを再確認したとの句意。折から子とともに戸外で過ごすことが増える季節であり、戸外では、自ずから父としての出番が増していくのだろう。この句のよろしさは、具象的に、「捲る腕」に焦点を定めたところ。子育て最中にある若き父としての作者の自画像である。『俳句四季』2026年5月号。
「春愁(しゅんしゅう)」「春愁ひ(はるうれい)」は、春の華やぎとは裏腹に、なんとなく気がふさいで物憂い気分をいう。春ならではの気だるさ、気分の曇りである。
掲句は、揺り椅子に腰かけて、漠然と春の物憂い気分に浸っていると詠む。揺り椅子(ロッキングチェア)は、心地よい揺れが心身をリラックスさせてくれるが、ブランコなどと同様、自分で程よく揺らして用いるもの。「ゆらさねばゆれぬ揺り椅子」は当たり前のことを言っているのだが、ユラ・ユル・ユリのリフレインが、心地よいリズムとなって、その時の作者の気分の揺蕩い(たゆたい)を表しているようだ。俳句が佳句、秀作になるかどうかは、意味よりも韻律が決め手になることを、この句は教えてくれる。『俳壇』2026年5月号。
「夕桜」は夕暮れ時の薄明かりの中に佇む桜のこと。華やかな昼の桜とは異なり、静寂の中にほの白く暮れ残る寂しげな印象がある。暮れてゆく春の一日を惜しむ思いもあるだろう。
掲句は、夕桜を眺めながら、母の手がいつも濡れていたことを追想しての作品。月日が経過しても、亡き母の記憶は薄れるどころか、ますます純化され、鮮明になっていく。母の手が水仕のためいつも濡れていたというのは、何度となく母を追想する中での、一つの発見だったのだろう。家族のために台所に立ち続けた母の記憶を、作者は珠のように大切にしているのだ。その独り心を、夕桜のほの明りが優しく包む。『俳壇』2026年5月号。
「涼し」は、夏の暑さの中で思いがけず覚える心地よい涼しさのこと。流水や木陰など、涼しさを感じる場面は様々で、そこに作者の個性が表れる。
掲句は、自在鉤に吊るされている鉄瓶を詠んだ作品。といっても、夏のことで、囲炉裏には火の気はなく、辺りに人の気配はない。「涼しさの芯に」との措辞が、作者の感動の焦点を明確に示している。夏の真昼、ほの暗い囲炉裏の真ん中に吊るされている鉄瓶は、言ってみれば「夏炉冬扇」のようなものだが、ひんやりとして確かに涼し気だろう。『俳壇』2026年5月号。
「梅」は、中国原産のサクラ属バラ科の落葉小高木又は落葉高木。日本の各地で広く栽培される。早春の頃、葉に先立って白い花が開く。
掲句には、「偕楽園」との前書きがある。偕楽園は日本三名園の一つで、梅の名所。作者も梅見に集まった客の一人として、咲き盛る梅の白さを愛でているのだ。とはいえ、作者の目は梅だけでなく、梅を見に集まった人々にも注がれている。梅を見に多くの人々が集まる今の世を肯定する思いが、そこにはあるだろう。人の目に汚されない梅の白さが印象的な作品だ。『文藝春秋』2026年5月号。