紅梅は、梅のうち赤い花を咲かせる種類とその花をさす。白梅より少し遅れて咲く。単に梅という場合は、一般的に白梅を指すことが多い。
掲句は、紅梅が暮れきって闇に沈んだ中を抜けてきたとの句意。闇の中にほのかに浮かび上がる白梅に対して、紅梅はいち早く闇に沈む。闇に沈んでも、昼間目にした紅梅の艶やかさはいつまでも眼裏に残っている。紅梅が咲く頃の、やや寒さが緩んだしっとりした闇が周りを包む。『俳句』2026年5月号。
紅梅は、梅のうち赤い花を咲かせる種類とその花をさす。白梅より少し遅れて咲く。単に梅という場合は、一般的に白梅を指すことが多い。
掲句は、紅梅が暮れきって闇に沈んだ中を抜けてきたとの句意。闇の中にほのかに浮かび上がる白梅に対して、紅梅はいち早く闇に沈む。闇に沈んでも、昼間目にした紅梅の艶やかさはいつまでも眼裏に残っている。紅梅が咲く頃の、やや寒さが緩んだしっとりした闇が周りを包む。『俳句』2026年5月号。
「鳥帰る」は、冬を日本で過ごした鴨、雁、白鳥などの渡り鳥が、春に繁殖地である北国へ戻ること。
掲句は、渡り鳥が北方に帰って行く頃、切株の年輪の中心が北に片寄っていることを詠む。切株の芯が東西南北のどちらかに片寄るのは、木の生育環境によるもの。芯が北に片寄っている切株は、その木が生前、北という方角に対して身構えていたことを示す。それは木枯しが吹いてくる方向であり、冬将軍がやってくる方向である。また、春、渡り鳥が帰って行く方角でもある。掲句は、北という方角のもつ豊かな意味合いを、改めて思い起こさせる。『俳句』2026年5月号。
「秋深し」は、秋が深まり、朝晩の冷え込みが増して、冬の訪れを予感させる時期の寂寥感(せきりょうかん)や静けさを表す言葉。実りの秋が終わる名残惜しさと冬へ向かう静寂とが入り混じる。
掲句は、手紙などに「心より」と記したとき、ことさら秋の深まりを感じたとの句意。「心より」「衷心より」などは、真実な気持ちや深い感謝、お詫び、祈りなどを伝えるため、改まった手紙や弔辞、フォーマルな挨拶などでよく用いられる言葉。しかし、その表現が形式化して、実意が伴わないことの方が多い。否応なく形式と本音を使い分けて生きていかなければならない人という生き物の宿命だろうか。形式化した言葉の虚しさと、その中で生きていく人の哀しさを、作者は感じ取っている。『俳句』2026年5月号。
「春」は四季の一つで、立春(2月4日頃))から立夏(5月6日頃)の前日までの期間。 日差しが日に日に強くなり、風も和らぎ、 冬の茶色やグレーの世界から、梅や桜のピンク、菜の花の黄色、新芽の鮮やかな緑へと、色彩が多様になる。草木虫魚の活動が活発になる季節でもある。
掲句は、道行く人の山高帽に鳥の羽が差してあるのを目にして、春になったことをしみじみ感じ取っているとの句意。山高帽はイギリス発祥の帽子で、自ずから、ダンディな年配男性の風貌が思い浮かぶ。帽子に鳥の羽を差すのは、心の余裕の表れであり、作者はそこに、明るく開放的な春の到来を感じ取った。街中で目にしたことをすかさず一句に仕立てた即興の作品だろう。即興は俳句の醍醐味の一つ。『俳句四季』2026年5月号。
「地虫出づ」は、甲虫類のカブトムシやコガネムシ等の幼虫や、蛇や蛙などが、春先の温かさに誘われて地上へ出てくること。地上の春の始まりを感じさせる。
掲句は、戸外で腕まくりして自らの腕が目に入ったとき、改めて自身が父となったことを再確認したとの句意。折から子とともに戸外で過ごすことが増える季節であり、戸外では、自ずから父としての出番が増していくのだろう。この句のよろしさは、具象的に、「捲る腕」に焦点を定めたところ。子育て最中にある若き父としての作者の自画像である。『俳句四季』2026年5月号。