菜の花が一面に咲くのは晩春の頃。その明るさの中にいると、老病死などの人の世の幾多の苦しみが、霧消するような錯覚を覚える。
掲句は、大切な人の逝去を悼み、その生誕から死までの「一生(ひとよ)」を追想しての作品。死は生の終着点であり帰結だが、逆に、「棺を蓋いて事定まる」との諺があるように、死が、その人の「一生」を改めて照らし出すということも、紛れない真実だろう。「花菜風」の明るさの中で、作者の故人に対する追想は、どこまでも明るく広がっていく。『俳句』2023年5月号より。
菜の花が一面に咲くのは晩春の頃。その明るさの中にいると、老病死などの人の世の幾多の苦しみが、霧消するような錯覚を覚える。
掲句は、大切な人の逝去を悼み、その生誕から死までの「一生(ひとよ)」を追想しての作品。死は生の終着点であり帰結だが、逆に、「棺を蓋いて事定まる」との諺があるように、死が、その人の「一生」を改めて照らし出すということも、紛れない真実だろう。「花菜風」の明るさの中で、作者の故人に対する追想は、どこまでも明るく広がっていく。『俳句』2023年5月号より。
「蜂」の多くは集団で生活し、女王蜂、働き蜂など、集団の中での役割が決まっている。また、その生態は、蜜や花粉を目当てに花にくるもの、他の虫を捕食するものなど様々だ。
掲句は、花々を巡って集めてきた蜜を移し合う蜜蜂の口吻の辺りを、クローズアップしたような作品だ。通常は、野外を歩いていても、そのような微細な部分に目を止めることは少ないが、この句では、拡大鏡を覗いたときのように、蜂の舌が「ぬらぬら」と動いて蜜を移し合う様が、読者の目に見えてくる。「ぬらぬら」との擬態語が臨場感をもたらしている。『俳壇』2023年5月号より。
「春愁」は、生気のあふれる春の最中に感じるそこはかとない愁いのこと。個人的には、年齢を重ねるにつれて、春という季節の溌溂とした生気に、自分の心と身体が追い付かないことから、軽い違和感や物憂さを感じることが増えているが、そんな感覚も「春愁」といえるのだろう。
掲句は、「春愁」のフラミンゴを詠んだ作品。フラミンゴは西アジアなどに野生として生息しているが、動物園で飼育されているお馴染みの水鳥だ。そのフラミンゴが見物の人々の前で、長い首を曲げて嘴を羽に埋めているのだ。檻の中での生活に退屈しているようにも、また、眠気を感じているようにも見える情景だが、作者はそこに「春愁」を感じ取った。それは、作者自身が自らに感じている「春愁」の反映でもあるだろう。春の日中の、余りひと気のない動物園の物憂い感じが表れている。『うろこ雲』所収。
4月も下旬になると、日差しや風、水のきらめき、庭園や野の花々、道を歩く人の服装、青果や鮮魚の売り場など、見るもの聞くものにつけ、夏の近づいてくることを実感することが多くなる。
掲句は、簡明な即物具象の作品。一読、〈春暁の竹筒にある筆二本 龍太〉を思い浮かべた。動きがあるとすれば、戸外に干してある俎板に、木漏れ日がゆらゆらと揺れていること位だろうか。いずれにしても、下五の「夏隣」は盤石の据わりだ。本格的な夏の到来を前にした静かさが辺りを支配している。「俎板」という素材に、生活者としての作者の日常が覗いている。『俳壇』5月号。
「鶯餅」「蕨餅」は春早々に、「桜餅」は少し遅れて桜の咲く頃店頭に並ぶ。「桜餅」には、関東風の長命寺と関西風の道明寺があるが、ともに薄紅色の餅肌で、塩漬けした桜の葉で包む。一年のうちほんの一時期店頭に出てくるものだが、好物の人はその時季の到来が待ち遠しいだろう。
掲句は、婚儀や遠忌の法要などで久し振りに顔を合わせた従弟・従妹たちが同座して、歓談している場面。「いとこ」という関係は、ごく親しい場合を除いて、一般には会う機会も限られ、年を経るにつれて疎遠になっていくものだが、そんな彼ら彼女らが並んでみると、やはりどことなく似ているところが、目についたのだ。「いとこ」同士という緩やかな関係と「桜餅」とが、どことなく照応していて面白い。『俳壇』2023年5月号より。