「新緑」は、夏を迎えたばかりの初々しい若葉の緑のこと。この言葉には、夏の到来を告げる清新さとその中で生きる喜びがある。当初感じられた木々の緑の溌溂とした新鮮さは旬日で薄れてしまうのだが・・・。
掲句は、瑞々しい新緑の中で、「海を知らざる猫」を抱いているという。内陸の地方で育った猫が海というものを知らずに生き、そして死んでいくということに、作者は愛おしさを感じている。新緑という生命力あふれる季節が、作者を海辺への旅に誘っているのかも知れない。『俳句』2023年6月号。
「新緑」は、夏を迎えたばかりの初々しい若葉の緑のこと。この言葉には、夏の到来を告げる清新さとその中で生きる喜びがある。当初感じられた木々の緑の溌溂とした新鮮さは旬日で薄れてしまうのだが・・・。
掲句は、瑞々しい新緑の中で、「海を知らざる猫」を抱いているという。内陸の地方で育った猫が海というものを知らずに生き、そして死んでいくということに、作者は愛おしさを感じている。新緑という生命力あふれる季節が、作者を海辺への旅に誘っているのかも知れない。『俳句』2023年6月号。
桃は中国原産だが、弥生時代に日本に渡来した。晩春に、五弁一重の淡江の花を咲かせる。桃の花には、桃源郷の説話があるように、長閑な理想郷のイメージがあり、また、雛祭の花でもある。
掲句は、行きずりの山家から赤ん坊の泣き声が洩れてきたという。日頃は静かな山辺に、生まれて間もない嬰(やや)の泣き声が響き渡る。折から、桃の花が、赤子の誕生を祝福するかのように咲き盛っている。旧暦で祝う桃の節句の頃の明るさと華やぎがあろう。『俳句』2023年6月号。
俳句で「花」といえば桜の花のことだが、「花」と桜は同じではなく、桜より豊かな広がりを持つ。雪月花の雪や月と同様、日本人の風雅の心の根幹を形作るものだ。
掲句は、宴や舞台が果てた後の静寂が感じられる作品。「月今宵」は仲秋の満月の夜のことだが、「花今宵」にも、満開となった桜を夜になっても愛でる花時特有の気分があろう。闇へ戻っていくのは、宴に集まった人たちであり、舞台で演じた役者や観客であり、また、花の精でもある。やや抽象的な句柄ながら、爛漫と咲き盛る花が夜目にも見えるようだ。『俳句』2023年6月号。
単に「キャベツ」といえば、初夏の季語(「甘藍」の傍題)であり、春のうちに出回る走りのキャベツは「春キャベツ」として区別する。他の季節のキャベツに比べて、みずみずしい黄緑色をしており、柔らかく、葉の巻きがゆるいのが特徴だ。
掲句には、春キャベツを刻みながら、ふと立ち止まって自らの日常を振り返っている趣があろう。「さしあたり」は、先のことは兎も角、今現在は幸せな日々を送れているとの意味合い。今の時間を大切に、丁寧に生きている女性の心情である。中七以下は破調だが、野球でいえば、緩急自在の投球を思わせる。『俳句』2023年5月号。
「春動く」は、「春めく」の傍題。立春を過ぎてしばらく経つと、春らしくなってきたと感じる瞬間がある。冬の間、土中や水中などでひっそり静まり返っていた生き物たちがいよいよ動き出す。
掲句は、「殻」や「繭」の中で動き出す春を詠む。生き物の「殻」としては、鳥などの卵の殻を想像したい。また、「繭」といえば絹糸の原料となる蚕の繭(春季)を思い浮かべるが、ここでは蚕の繭に限定せずに、より一般的に、昆虫の幼虫が蛹(さなぎ)になるときにつくる殻状または袋状の覆い(繭)を想定したい。生き物たちの営みが始まる春先の、静から動への季の移ろいが的確に捉えられている。『俳句』2023年5月号より。