「とんぼうの空」は沢山の蜻蛉が群がり飛ぶ空のこと。秋になると、郊外では、「とんぼうの空」といえるような空に幾度か会う。群れの中には、ヘリコプターのように空中に止まるものもいるし、ずんずんと高度を上げて青空に紛れてしまうのもいる。
掲句は、空壜を通して「とんぼうの空」を見ているという。ただ事といえばただ事だが、その無心な動作が、蜻蛉という昆虫のもつ親しさ、懐かしさを浮かび上がらせる。『俳句』令和5年8月号。
「とんぼうの空」は沢山の蜻蛉が群がり飛ぶ空のこと。秋になると、郊外では、「とんぼうの空」といえるような空に幾度か会う。群れの中には、ヘリコプターのように空中に止まるものもいるし、ずんずんと高度を上げて青空に紛れてしまうのもいる。
掲句は、空壜を通して「とんぼうの空」を見ているという。ただ事といえばただ事だが、その無心な動作が、蜻蛉という昆虫のもつ親しさ、懐かしさを浮かび上がらせる。『俳句』令和5年8月号。
百日草はキク科の一年草。開花期が長いことからこの名がある。暑い夏をとおして咲き続け、冬の初めまで咲き残っている。
掲句は、生活者としての日常の機微を掬い上げた作品だ。月火水木金土日の一週間を総称して七曜というが、何かと予定が立て込んで忙しなく過ごす日々の中で、日曜だけがぽっかりと予定がないままだという。少し寂しく物足りない気がするが、一方では気ままに過ごす日曜も悪くない。「ぽつかりと」との軽い擬態語が、そんな心情を想像させる。暑い日々はまだまだ続く。『俳句』2023年8月号。
五月雨(さみだれ)は、旧暦五月頃に降る長雨のこと。丁度田植えどきであり、我々の生活に深く結びついている雨である。雨が降り続くことは鬱陶しくもあるが、雨に濡れた草木は日々繁茂し、いよいよ緑を深めていく。
五月雨の最中、夫(つま)の死を独り悼んでいる。最も身近だった人の死が作者の心にどれ程の悲しみ、嘆きをもたらしたのかは、「夫の死わが心の死」との端的な措辞が語っている。夫の死はすなわちわが心の死だというのだ。「死」のリフレインのモノローグが、誰とも分かち合えない作者の孤心と悲しみを伝える。『俳句』2023年8月号。
「麦の秋」は、麦が黄熟し刈り入れ間際の頃をいう。関東近辺ではおおむね初夏だが、北海道など関東以北では、より遅い時季になるだろう。「麦の秋」といえば、背景に、黄金色の麦畑の風景を思い描きたくなる。
掲句の碑(いしぶみ)は句碑だろうか、それとも開拓碑、戦役碑の類だろうか。いずれにしても、先人が同時代の人の事跡を記念して建てた碑である。掲句は、麦秋の明るさの中で、忘れられたように立っている碑に刻まれている人の名がみな故人だという。石の方がわれわれ人間の生身よりずっとゆっくり朽ちていくことを、改めて思い知らされる厳然たる事実である。麦秋の明るさの中で、時間のもつ冷徹さを突き付けられる思いがする一句だ。『俳句』2023年8月号。
斑猫(はんみょう)は平地から山地にかけてよく見かける2センチほどの甲虫。人が近づくと飛び上がり、先へ下り立って、振り返るような仕草をする。その動作が人に道案内するように見えるので、「道おしえ」の名で親しまれてきた。
掲句は、視覚に障害のある人の白杖(はくじょう)がそこに着くのを待って斑猫が飛び立ったという。白杖の人を気遣っているようにも見える斑猫の飛び方を、作者の詩心は見逃さなかった。無心に飛ぶ斑猫と白杖の人とが、この一瞬、心を通じ合わせているかのような印象がある。『俳句』2023年8月号。