花吹雪は風に舞い飛ぶ花びらを吹雪(ふぶき)に譬えた言葉で、落花の傍題。
掲句の胸奥を過ぎてゆくものは、作者がかつてみた花吹雪の残像だろう。花吹雪はそれ自体が日本人の美意識に訴える美しい現象であり、散り急ぐ今年の桜を惜しむ思いと行く春を惜しむ思いが交錯する。過ぎてゆくものは花吹雪のみではない。作者の経てきた月日そのものである。『俳句』令和5年7月号。
花吹雪は風に舞い飛ぶ花びらを吹雪(ふぶき)に譬えた言葉で、落花の傍題。
掲句の胸奥を過ぎてゆくものは、作者がかつてみた花吹雪の残像だろう。花吹雪はそれ自体が日本人の美意識に訴える美しい現象であり、散り急ぐ今年の桜を惜しむ思いと行く春を惜しむ思いが交錯する。過ぎてゆくものは花吹雪のみではない。作者の経てきた月日そのものである。『俳句』令和5年7月号。
蠅叩は蠅を打ち殺す道具。身辺から蠅がいなくなり、日常生活で蠅叩を目にすることは少なくなった。原始的な道具だが、蠅を殺すための道具であることに変わりはない。
掲句の「殺戮の武器」で読者が真っ先に思い浮かべるのは、ミサイルや戦車や銃などではないだろうか。或いは、時代劇に出てくる太刀や弓矢など。読者によっては原子爆弾を思い浮かべるかも知れない。なるほどこれらの武器は、使用していないときはいずれも静かだ。使おうという人の意思と行動があって、初めて「殺戮の武器」になる。掲句は、蠅叩もこれらの武器と同じだと言っている。だが、「殺戮の武器」という大上段に構えた措辞と簡便な「蠅叩」の間にある余りに大きな落差に、読者は立ち止まらずを得ないだろう。そこに、作者が込めようとした痛烈なイロニーが匂い立つ。『俳句』2023年7月号。
花の夜といえば、昼間見た爛漫と咲き盛る花(桜)の姿を心の中で思い浮かべながら過ごす静かな夜が思われる。既に万朶の花は夜闇に沈んでいるのだが、その華やかな姿は眼裏に残っている。
掲句は、夜、花の余韻に浸っている作者の、自らの身体に対する遠近感覚を詠んでいる。土不踏(つちふまず)は、身体の中で最も目につかない部分であり、顔や手に比べると普段意識することも少ないが、乗り物が発達した現代でも、人の活動は自らの二本の足が頼みであることに、今も昔も変わりはない。日頃頼みにしている土不踏のことを思い浮かべるところに、花見の後の作者の心地よい疲れが思われる。『俳句』2023年6月号。
雀は人の生活の近くにいる馴染み深い鳥。雀の雛は、孵化の後2週間ほどで羽が生え揃って巣から飛び立つが、しばらくは親鳥から餌をもらって過ごす。巣立ったといっても、羽の模様はまだ整わないし、鳴き声も幼いままだ。
掲句は、窓辺に置かれた筆立と窓の外に来ている雀の子を取り合わせた作品。筆立に溢れているペンが、作者の生活の一端を覗かせているが、折りから雀の子の声が親雀の声に交じって聞こえる。雀の親子が、餌を求めて庭先に来ているのだ。室内と戸外の対比が、作者の日常とともに、春の深まりを感じさせる。『俳句』令和5年6月号。
「夏木」は、夏になって鬱蒼と枝葉を茂らせた一本の木をいう。複数の木々を一体として捉えるときは「夏木立」。夏の盛りの生気あふれるイメージがある。
掲句は、森の中の一木に熊の爪痕が残されているという。「ざつくり」は、深くえぐれたり、大きく割れたりするさまを表す擬態語で、一読、熊の爪により幹を無惨に抉られながら、そこに立ち続ける夏木の鬱然たる様が思い浮かぶ。一本の夏木に焦点を絞った作品だが、自ずと熊も生息している森の豊かさ、奥深さを感じさせる。ただし、近年の人と熊の共存困難な状況を思うと、「夏木かな」の下五がいささか物足りなくもある。『文藝春秋』2023年7月号。