青葉木菟はフクロウ科の夏鳥で、低山や神社の森などに飛来する。青葉の頃の夜、オスはホーホーと二声ずつ鳴く。
掲句は幻想による作品だが、「ことだま売り」との措辞に思わず惹きつけられた。ことだま(言霊)は言葉が持つとされる霊力であり、詩歌に携わる人々は、私を含めて、日々自らが作る詩歌のもつ言霊を信じて言葉で何かを表現しようとしている。実際にこの世に「ことだま売りの老婆」がいて、言霊が手に入ればとの願いが、この句の幻想につながった。『俳句』2023年10月号。
青葉木菟はフクロウ科の夏鳥で、低山や神社の森などに飛来する。青葉の頃の夜、オスはホーホーと二声ずつ鳴く。
掲句は幻想による作品だが、「ことだま売り」との措辞に思わず惹きつけられた。ことだま(言霊)は言葉が持つとされる霊力であり、詩歌に携わる人々は、私を含めて、日々自らが作る詩歌のもつ言霊を信じて言葉で何かを表現しようとしている。実際にこの世に「ことだま売りの老婆」がいて、言霊が手に入ればとの願いが、この句の幻想につながった。『俳句』2023年10月号。
秋暑は残暑ともいい、立秋を過ぎてもなお残る暑さのこと。暑さのピークは過ぎたとはいえ、いつまでも続く暑さにはうんざりさせられる。
掲句は、ハンガー(洋服掛け)にハンガーが掛けてあるという室内の情景を句にした。掛けるところのないハンガーをハンガーに掛けるというのは、よくあることだ。そこに人の気配はなく、ただ秋の暑さが辺りを支配している。描写にことさら意味を求めないことが、この句に無機的な新鮮さをもたらしている。『文藝春秋』2023年11月号。
晩秋は、三秋(初秋・仲秋・晩秋)の末の月のことで、陰暦9月(現行の歴では10月頃)。山野の草木が色づき始め、日々の生活の中で、冬が近づく気配が感じられるようになってくる。
掲句は眼前の大木を擬人化して、晩秋の季節感を感じさせる作品だ。「大きな木」は、樹齢を重ねた欅や樟などを想定したい。晩秋の透徹した空気の中で、眼前の大木がこの世の何もかもを見ているように感じられたという。通常は見る対象である木が、逆にこの世を見ているという捉え方が面白い。『俳句四季』2023年10月号。
秋の声は、澄んだ空気の中に繊細になった聴覚の捉えた秋の気配。葉擦れの音、水音、虫の音などであってもいいが、心の中で聴きとめる心象的な声のこともある。
掲句は寺院などの回廊に佇んで秋の気配に耳を澄ませているところだろう。回廊は、建物や中庭などを取り囲むように、途中で折れ曲がりながら続く長い屋根付廊下のこと。私は宮島の厳島神社を思い浮かべたが、どこであっても構わない。いずれにしても、歴史のある寺院などの回廊を想定したい。回廊の吹き抜けて来る風の音を「秋のこゑ」と捉えたところに、俳人としての直感の働きが見える。『俳句四季』2023年10月号。
広島忌は原爆忌の傍題。昭和20年8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。人類に対する初めての核兵器の使用であった。
掲句は、街の真上の雲一つない晴れわたった「疵(きず)のない空」に言及することによって、原爆投下の惨状を浮かび上がらせる。多くの犠牲者が出、市街が破壊しつくされる中で、空だけが無疵のまま残ったというのだ。平明な表現の向こうに平和への願いを込めた作品。『俳句四季』2023年10月号。