螢(ほたる)は、夏の宵、水辺の闇を明滅しながら飛ぶ。螢火の冷たい光を見ていると、忙しない日常から離れて、未生滅後のことに思いは広がっていく。
掲句は、螢の飛ぶ闇に囲まれて、生きることの意味や限界を新ためて自問している作品。「見える」は、この句では単に視覚に映るというよりも、認識するとの意味合いだろう。日頃何でも物が見えると思って生活しているが、実は人が認識できるのは、この世のごく一部分に過ぎない。大部分の事象は目に見えないまま一生を終わるのだ、と。『俳句』2023年11月号。
螢(ほたる)は、夏の宵、水辺の闇を明滅しながら飛ぶ。螢火の冷たい光を見ていると、忙しない日常から離れて、未生滅後のことに思いは広がっていく。
掲句は、螢の飛ぶ闇に囲まれて、生きることの意味や限界を新ためて自問している作品。「見える」は、この句では単に視覚に映るというよりも、認識するとの意味合いだろう。日頃何でも物が見えると思って生活しているが、実は人が認識できるのは、この世のごく一部分に過ぎない。大部分の事象は目に見えないまま一生を終わるのだ、と。『俳句』2023年11月号。
つくつくしは法師蝉のこと。ツクツクホーシとの鳴き声からきた呼び名。八月下旬、秋の気配が濃くなる頃鳴き始める。
掲句は鳴きしきる法師蝉の声の中で亡き母を追懐している作品。「つくつくし」のリフレインが、法師蝉の盛んな鳴き声を想像させ、却って作者の独り心を浮かび上がらせる。亡くなった母は二度と還って来ない。簡明な表現だが、一読訴えてくるものがある。『俳壇』2023年11月号。
新涼は、秋になって感じる本格的な涼しさのこと。夏の暑さの中の一時的な涼しさと違って新鮮な中に安堵感がある。
掲句は日常生活の中から詩を掬い上げた一句。書き損じの紙を丸めて少し離れた屑籠に投げ込もうとしたが、逸れてしまったのだ。「紙礫」は、雪合戦のときの雪礫と同様、投げつけるために紙を固く丸めたもの。どんな日常の些事でも、適切な季語と組み合わせれば佳句になり得ることを改めて認識させられる。『俳壇』2023年11月号。
露草は、路傍や庭先などに咲く身近な野の花。その混じり気のない青い花には、夏の暑さに倦んだ命が癒される思いがする。夏もようやく峠を越した頃、いつの間にか咲いている花だ。
掲句は露草の瑠璃色から宇宙に思いを馳せた作品。露草はささやかな野の花だが、その澄み切った瑠璃色は、空の彼方の宇宙へと人の心を誘うところがある。確かに、別々の星に生まれた生き物同士が知り合う機会は、今の科学技術では皆無だろう。将来はどうかわからないが・・・。『俳句四季』2023年11月号。
暑い夏だからこそ涼を求め、涼に敏感になることから「涼し」は夏の季語。暑さの中で涼しさを求めるのは人間に限らない。
掲句は夏の最中の猫の動きが見えてくる作品。猫は夏の暑い最中は、日差しを避けて涼しい木蔭や家の陰などに憩っている。飼い主である人間や他の猫に気を遣わずに、自分が居たいところにいる、というのが猫の習性だ。「つと」はある動作を素早く、又はいきなりするさまを表す擬態語で、何物にも束縛されない猫の姿を効果的に描き出す。さらりとした描写だが、暑中の猫の姿が生き生きと表現されている。作者は猫好きの人に違いない。『俳句』2023年10月号。