「滝」は年間を通じて見られるが、その涼味から夏の季語とされている。季語として定着したのは近代以降である。
掲句は「滝」そのものよりも、「滝」を前にした人の心の在りようを詠んだ作品。自然美としての眼前の「滝」に心を奪われるのが人の常だが、掲句では、折角の「滝」を前にして、別の考え事をしているというのだ。正攻法の作品ではないが、人の心の一面を確かに捉えている。「滝」という季語が、料理の隠し味のように利いている。『俳壇』2025年6月号。
「滝」は年間を通じて見られるが、その涼味から夏の季語とされている。季語として定着したのは近代以降である。
掲句は「滝」そのものよりも、「滝」を前にした人の心の在りようを詠んだ作品。自然美としての眼前の「滝」に心を奪われるのが人の常だが、掲句では、折角の「滝」を前にして、別の考え事をしているというのだ。正攻法の作品ではないが、人の心の一面を確かに捉えている。「滝」という季語が、料理の隠し味のように利いている。『俳壇』2025年6月号。
桜の花は盛りを過ぎると一斉に散りはじめる。花吹雪(はなふぶき)は、吹雪のように花びらが舞い散ること。
掲句は桜が散る中で、水兵・歩兵だった頃の「敏夫」「鬼房」の面影を追っているとの句意。三橋敏夫は戦時中に召集を受け、横須賀海兵団に入団した。佐藤鬼房も徴兵により入隊し、中国、南方に転戦した。両氏の戦後の句は、この戦争経験抜きには語れない。作者の両俳人に対する追慕の思いを、「ちるさくら」との仮名書きがやわらかく包む。『俳壇』2025年6月号。
「青き踏む」「踏青(とうせい)」は春、萌え出た青草を踏みながら、野山を散策すること。野遊び、ピクニックと同様、春の行楽の意味合いがある。
掲句は海の匂いが沁みついた髪のまま、春の青草を踏んで興じているとの句意。開放的な春の行楽の一日が伸びやかに詠まれている。海の匂いは、諸々の命を育む匂いだ。作者の命も、海の匂いと一体になって春を楽しんでいる。『俳句』2025年5月号。
「木の葉髪」は初冬の頃、夏に傷んだ毛髪が生え替わるなどのため、抜毛が多くなることをいう。折から木の葉が落ちる季節。一抹の侘しさを感じさせる言葉。
掲句は、父という作者の胸深く棲む存在に目を向けた作品。いつしか亡き父の行年に近い年齢になったが、胸中の父の面影は薄れるどころか、年々濃くなってきたのだ。「父よりも父に似」ているというアイロニカルな把握には、言葉の上の技巧にとどまらない実感がある。作者の経てきた半生の時の厚みを感じさせる。『俳句界』2025年5月号。
「春愁」は辺りに生気があふれる春の最中に覚えるものうい哀愁のこと。ふっと物思いにふけったりする軽いぼんやりとした愁いである。
掲句は、自らの「春愁」が内ポケットに入るほどだという。「春愁」という目に見えないものを見えるように表現した句といえるだろう。古風に「隠し(かくし)」などと言わずに、今風の言葉をそのまま取り入れたところに、作者の俊敏な才気が窺える。春の愁いは、作者の胸の辺りに音もなく忍び込んでくるのだろう。『俳句』2025年5月号。