「秋灯(あきともし)」は秋の夜の灯火のこと。シュウトウとも読む。灯火の下で、長い夜を独り静かに味わい、友と語らい、書に親しむ。
掲句は「秋灯」に照らされた一部屋を詠む。居間、リビングなどと呼ばれる一部屋に、作者は多くの時間を過ごす。その部屋の中に、作者の居場所がいくつもあるというのだ。本を読むときはソファーに腰掛け、食事の時はテーブルに向かい、パソコンを使うときは隅の椅子に腰かけ、といったように。秋は、自らの日常を改めて振り返る季節でもある。『俳句』2025年9月号。
「秋灯(あきともし)」は秋の夜の灯火のこと。シュウトウとも読む。灯火の下で、長い夜を独り静かに味わい、友と語らい、書に親しむ。
掲句は「秋灯」に照らされた一部屋を詠む。居間、リビングなどと呼ばれる一部屋に、作者は多くの時間を過ごす。その部屋の中に、作者の居場所がいくつもあるというのだ。本を読むときはソファーに腰掛け、食事の時はテーブルに向かい、パソコンを使うときは隅の椅子に腰かけ、といったように。秋は、自らの日常を改めて振り返る季節でもある。『俳句』2025年9月号。
月といえば秋の月である。秋の月は、春の花、冬の雪とともに日本の四季の美を代表する。単に月といえば秋の月を指すのは、秋から冬にかけて空が澄み、月が明るく大きく照りわたるから。
掲句はその澄みわたった月光の中で、「龍の骨」を拾ったという。龍は神話や伝説に登場する想像上の生き物。その骨が木っ端か何かのように、波に打ち上げられたものの中に交じっていたのだ。月の光にはこの世とあの世、現実と夢などの境界を取り払うはたらきがある。澄んだ月光のもとで、「龍の骨」を拾うことが、現実にあり得ることのように思えてくる。『俳句界』2025年9月号。
「川渡御(かわとぎょ)」は「天満祭(大阪の天満宮の夏祭)」の傍題として歳時記に出ているが、一般的には祭の神事の一つで、厄を祓い五穀豊穣等を祈願して神輿(みこし)を川に入れる行事のこと。全国各地の夏祭で行われており、「天満祭」に関連する季語として扱っている現状は、改めてはどうかと思う。
掲句は、秩父で毎年7月19、20日に行われる川瀬祭りを詠んだ作品。大祭の日には、神社神輿が荒川の中へと入る神輿洗いの儀式が行われる。川の水深が増すにつれて、神輿衆のうち前列の男たちが「づづと」崩れたという。この擬態語は、句にダイナミックな臨場感をもたらす絶妙の措辞。たった一語が句に命を吹き込むことを、改めて認識させられる。『俳句』2025年9月号。
「鉾祭(ほこまつり)」は祇園祭のことで、日本の三大祭の一つ。山鉾30数基が洛中を巡行する。「山鉾」「鉾立」「鉾町」「鉾の稚児」など関連季語は多い。
掲句は祇園祭を詠んだ作品。といっても、祭の細部は省略して、山鉾が巡行する都大路の果てに起ち上る雲に焦点を当てた。カメラでいえば、望遠レンズで洛中・洛外の大景を一枚に収めたような一句。鬱勃と湧き上がる雲に、祭の頃の季節感が感じられる。「鉾」だけでは厳密にいえば季語にならないが、読者に十分に句意が通じる作品である。『俳句』2025年9月号。
初鰹(はつがつお)は、春から初夏にかけて、黒潮に乗って南の海から日本の太平洋沿岸を北上する鰹のこと。かつては、若葉の頃伊豆、房総沖で獲れる鰹が江戸っ子に珍重された。高知県で初鰹が獲れるのは、それより少し早い3~5月頃。
掲句は旅先で初鰹を食べながら、今、「龍馬の国」に来ていることを改めて思っているとの句意。下駄の歯ほどの厚みに切った鰹のタタキを粗塩をつけて食べる「塩たたき」は高知独特の食べ方で、薬味を一切使わないのが一般的という。作者はその素朴な食べ方に、この地が坂本龍馬の生国であることを思い起こし、懐かしさを感じているのだ。『俳句』2025年9月号。