白玉は喉越しがよく見た目が涼し気な夏の食べ物。白玉あんみつ、白玉ぜんざいなどは、甘味処の定番メニューだ。
掲句は和風喫茶や甘味処での光景を切り取った作品。店内で向かい合って白玉を食べながら商談しているらしい二人連れの客。隣の席で彼らの話を聞くともなく聞いていると、態度や話ぶりから、この商談が駄目らしいことが赤の他人の作者にも分かったという。スナップショットのような軽い作品だが、その軽さが白玉の趣とどことなく照応していて面白い。『文藝春秋』2023年9月号。
白玉は喉越しがよく見た目が涼し気な夏の食べ物。白玉あんみつ、白玉ぜんざいなどは、甘味処の定番メニューだ。
掲句は和風喫茶や甘味処での光景を切り取った作品。店内で向かい合って白玉を食べながら商談しているらしい二人連れの客。隣の席で彼らの話を聞くともなく聞いていると、態度や話ぶりから、この商談が駄目らしいことが赤の他人の作者にも分かったという。スナップショットのような軽い作品だが、その軽さが白玉の趣とどことなく照応していて面白い。『文藝春秋』2023年9月号。
夜が明けてもまだ空に残っている月のこと。陰暦の8月16日以降は、しだいに月の出が遅くなるので、翌日の明け方にも月を見ることができる。月の面を蝙蝠の影が掠めたりもする。夜の光を失った月には、夢の続きのような淡々しさがある。

雨宮更聞氏の自選自解句集『時習』を読んでいて、「(着流し姿の)こんな寛いだ姿も印象深いが、正装で出掛ける時の凛々しい姿にこそ、蛇笏と云う俳人の全てがあった様に記憶する。」との一文に目が留まった。雨宮氏は蛇笏、龍太父子と同じ集落(山梨県旧境川村小黒坂)の住人であり、生前の両師に近くで接してきた俳人である。氏のこの一文は、蛇笏の人となりや句風をよく言い当てているように思う。 ゆかた着のとけたる帯を持ちしまま 蛇笏 蛇笏にはこのような寛ぎの気配を感じさせる句もあるが、やはり本領は次のようなきりっとしたタテ句だろう。 極寒の塵もとゞめず岩ふすま 蛇笏 芋の露連山影を正うす 〃 「芋の露」の句の「正うす」は、秋たけなわの連山の形容であるとともに、蛇笏の心の姿でもあった。そして、蛇笏の希求した心の姿が生涯をとおして 変わらなかったことは、 誰彼もあらず一天自尊の秋 蛇笏 に至る戦後の作品を見ても明らかだろう。
かつて山本健吉は、蛇笏の句を評して、「彼(蛇笏)にあっては、姿を高く正しく保とうという欲求の熾烈さが、いささか自由さをそこなっていると思われる。」と書いた(『定本現代俳句』)。確かに、蛇笏にも、 薔薇園一夫多妻の場をおもふ 蛇笏 など、発想や連想の豊かさを感じさせる句はあるが、例えば 天の川わたるお多福豆一列 楸邨 にみられるようなユーモアや諧謔には乏しい。それは戦後逆縁の悲しみの中にあったこととも無関係ではないが、やはり蛇笏の本来の資質がタテ句にあったことが大きいだろう。
これに対して龍太はどうか。龍太の俳句観は、「私は、・・・俳句は、いわば普段着の文芸と考えている。」(『普段着の文芸』)との件に端的に表れている。実作では、 露の夜は山が隣家のごとくあり 龍太 涼新た傘巻きながら見る山は 〃 など家居の寛ぎを感じさせる諸作がある。そして、龍太が、『おくのほそ道』のなかで最も好きな句として挙げているのが、 文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉 であることにも、龍太のこの俳句観の反映を見たい。『おくのほそ道』には、「文月や」の句のすぐ前に、かの高名な 荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉 が出ている。「荒海」が正装の句だとすれば、「文月」の句は普段着の句といえるのではないだろうか。
揚羽蝶にはキアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハなどがあり、夏の激しい日差しの中や木立の中で飛ぶ様には躍動感がある。
掲句は、映画の字幕の裏側を揚羽蝶が通り過ぎたという、映画の中の一コマとも読めるが、おそらくは作者の幻想だろう。揚羽蝶には異界から来たような妖しい雰囲気があり、そのイメージが掲句の内容を活かしている。現実と幻想が交錯する作品だ。『俳句』2023年9月号。