我が国の稲作は縄文時代の終わりに始まったとされ、米は日本人の主食の座を今でも守り続けている。「稲の秋」は、稲穂が黄熟して収穫期を迎えた秋の情景を大きく捉えた言葉。
掲句は旅中、川の名が途中で変わることに興趣を感じたことが契機になってできた作品。数年前のバスツアーでの北海道の道東から道央への移動は、石狩川を上流へと遡るルートだった。石狩川はいつしか空知川、富良野川へと名を変え、折りからの麦畑の中を水嵩豊かに悠然と流れていた。その後、大景の中を名を変えて流れ続ける大河の印象を反芻し続けて、掲句の形になった。実景は初夏の麦畑の景だったが、作品の中では、「稲の秋」という秋の稲田の中の川を詠んだ作品になった。令和7年作。


