秋燕は、秋に南方に帰ってゆく燕をいう。営巣期を過ぎても8月中旬から9月にかけて帰る前の燕を見かけるが、軒先など人の生活の間近にというよりも、空高く遥か彼方を一羽又は数羽でとぶ燕の姿に気づくことが多い。
掲句は秋燕を見かける頃の空の澄みを句にしたもの。昼間快晴だった空が、崩れることなく、一片の雲もないまま暮れようとしている。その初秋の空合いを「緩びなき」と表現したことがこの句の眼目だと思っている。平成21年作。『春霙』所収。
秋燕は、秋に南方に帰ってゆく燕をいう。営巣期を過ぎても8月中旬から9月にかけて帰る前の燕を見かけるが、軒先など人の生活の間近にというよりも、空高く遥か彼方を一羽又は数羽でとぶ燕の姿に気づくことが多い。
掲句は秋燕を見かける頃の空の澄みを句にしたもの。昼間快晴だった空が、崩れることなく、一片の雲もないまま暮れようとしている。その初秋の空合いを「緩びなき」と表現したことがこの句の眼目だと思っている。平成21年作。『春霙』所収。
末枯は、晩秋になり、草葉が上部から、又は先の方から枯れてくること。乾いた風に揺れながら枯れてゆくさまは、秋の深まりを感じさせる。
美術展で、江戸時代の絵師伊藤若冲の群鶏図を観る機会があった。真っ赤な鶏冠を振り立てて鶏が躍り出てきそうな絵の前に立っていて、ふと、日頃身の周りにある枯れかかった草々を思い浮かべた。いつまでも褪せない顔料で描かれた鮮烈な鶏たちと、日々青みを失いつつある末枯とは、正反対であるからこそマッチングするのではないかと直感した。平成18年作。『春霙』所収。
「雁来月(かりくづき)」は葉月(陰暦八月)の異称。陽暦ではほぼ9月にあたる。北の国から雁(かり)が渡ってくる月だ。
9月は依然として昼間の残暑は厳しいが、夜は心地よい涼気が四肢を包む頃だ。めっきり夜が長くなってくる。月を見上げていると、渡って来る雁の羽音が聞こえてくるような気がする。「闇に親しむ」というのは、その頃の夜の実感そのままの措辞。平成17年作。『春霙』所収。
秋晴れは、秋の空が青々と澄み、高々と晴れわたること。ものの輪郭が明快で、吹きわたる風も爽やかだ。
掲句は、たまたま馬場で飼われている小屋の兎を金網越しに覗いたとき、その目の澄みが心に残ってできた作品。兎の目に映る空や木々や馬場の建物など何から何までが、折りからの秋晴れの澄んだ空気の中で、くっきりと息づいていた。「一部始終」には万物という意味だけでなく、一日の時間の経過をも表現したつもりである。当時せっせと応募していた毎日俳壇で、飯田龍太選の特選となった思い出の一句でもある。平成5年作。『河岸段丘』所収。
学校の夏休みや(社会人であれば)夏季休暇が終わることを「休暇明」「休暇果つ」といい、秋の季語になっている。夏の終わりの物憂い感じと、新学期を迎えたり仕事が再開したりする爽やかな期待感とが入り混じる。
掲句は、夏季休暇が終わりこれから出勤しようとする朝、近所の茶畑に目を遊ばせていてできた一句。茶の木は生長が早く、刈り込んでも刈り込んでも楉(若い小枝)を伸ばす。吹きわたる風に揺れる楉が、夏の名残を感じさせた。平成11年作。『河岸段丘』所収。