秋風は、万物衰退の季節に吹く風である。身にしみてあわれを添える光景の中を吹き抜けてゆく。
掲句は魚河岸での嘱目を作品にしたもの。魚が捌かれて、生きて海原を泳いでいたときの姿から、一個の食材へと変貌してゆく。包丁さばきの手並みが鮮やかであればある程、あわれさを感じさせる光景だった。平成24年作。
秋風は、万物衰退の季節に吹く風である。身にしみてあわれを添える光景の中を吹き抜けてゆく。
掲句は魚河岸での嘱目を作品にしたもの。魚が捌かれて、生きて海原を泳いでいたときの姿から、一個の食材へと変貌してゆく。包丁さばきの手並みが鮮やかであればある程、あわれさを感じさせる光景だった。平成24年作。
ななかまど(七竈)は、バラ科ナナカマド属の落葉高木。晩秋の深紅で燃えるような紅葉もいいが、落葉の後に残っている赤い実も風情がある。
掲句は長野の野辺山高原での作品。間もなく雪が覆うであろう晩秋の山々は、澄んだ空気の中で荒々しい山膚を見せていた。畑と駐車場の境のななかまどの葉が、真っ赤に色づいていた。令和2年作。
露は、地球上の水の循環にともなう現象。大気中の水蒸気が、夕方から夜、明け方にかけての気温の低下により木々や草に結露する。四季の中では秋に顕著に現われる現象だ。古来から、生命のはかなさの譬えに用いられてきた。
掲句は、目の前の蜘蛛の吐く糸のひかりに触発されてできた作品。林中に差し込む日差しを受けて、木や草に凝った露とともに、蜘蛛の吐く糸がきらきらと光っていた。爽やかに晴れた朝の光景だが、限りある蜘蛛の命やその営みのはかなさに対する思いもあった。令和元年作。
「涼新た」は、立秋を過ぎて、夏の間に折々感じていた涼しさとは違う本格的な涼しさを感ずること。待ちに待った秋が身辺に到来した感じだ。そうした風の感触は心地よいが、夏が終わった一抹の寂しさ、心細さを伴うこともある。
掲句は台所俳句。牛蒡を笹の葉の形に薄く切ることを笹掻きというが、切った牛蒡がはらはらと水に落ちるさまに興趣を感じた。男子厨房に入らずと言われたのは昔のこと。もっとも、牛蒡を削ぎ落していたのは私ではなかったが・・・。平成26年作。
飯田蛇笏(本名武治)は、昭和37年10月3日郷里の山梨県境川村(当時)で逝去。折から秋たけなわになる時節。代表句〈芋の露連山影を正うす〉は、丁度蛇笏忌の頃の大気の澄みが感じられる作品だ。
掲句は蛇笏忌の頃、明け方の川べりを歩いていての作品。辺りはまだ夜の気配が占め、頭上の月が皓皓と川面を照らし出していた。月光が「跳ね」と把握したことがこの句のポイント。平成22年作。