「初山河(はつさんが)」は元日に眺める山河のこと。日ごろ見慣れた山や川も、正月を迎えたばかりの目には、ことさら新鮮に映ずる。「初景色」とほぼ同様の意味だが、「初山河」には、自らの住むふるさとの自然を大掴みに捉えた趣がある。
掲句は元日の朝、いつもの散歩コースを辿りながら、西を走る秩父連山を眺め遣っての作品。夜通しの風も収まって、遥かな山々がくっきりと己を顕していた。新たな年を迎え、改めて生きて呼吸している自らを振り返った。「初山河」を前にした自分自身に意識を向けた一句。令和7年作。
「初山河(はつさんが)」は元日に眺める山河のこと。日ごろ見慣れた山や川も、正月を迎えたばかりの目には、ことさら新鮮に映ずる。「初景色」とほぼ同様の意味だが、「初山河」には、自らの住むふるさとの自然を大掴みに捉えた趣がある。
掲句は元日の朝、いつもの散歩コースを辿りながら、西を走る秩父連山を眺め遣っての作品。夜通しの風も収まって、遥かな山々がくっきりと己を顕していた。新たな年を迎え、改めて生きて呼吸している自らを振り返った。「初山河」を前にした自分自身に意識を向けた一句。令和7年作。
「白魚(しらうお)」は、シラウオ科の魚の総称で、北海道から九州の沿岸域、河口付近、汽水域に棲息する。春、川を遡上して産卵し、産卵後は死んでしまう。春が深まるにつれ、店先に並ぶ「白魚」がだんだん大きくなるが、それでも10センチにも満たない。
「白魚」は蒸したり煮たりすると真っ白になるが、掲句は、鮮魚売り場で半透明のまま売られていた生の「白魚」の目に命の不思議を感じての一句。地球上に生きている生き物には、ほぼ共通に目が二つずつある。その可憐さは、寿命が一年しかない「白魚」に最もよく表れているように思えた。平成31年作。
葡萄はブドウ科ブドウ属の蔓性植物。5、6月頃新しい蔓の葉と対生して円錐花序を出し、淡黄色の小さな花を多数つける。花芽が次第にふくらんでくるのは、晩春初夏の頃。
掲句は「白露」主宰だった山梨一宮町(現笛吹市)の廣瀬直人先生宅を訪れ、庭先の葡萄畑を散策したときの記憶を手繰り寄せての作品。晩春から初夏にかけての生気あふれる雲と細かい粒状の葡萄の花芽は、命あるものがお互いに呼び合っているような気配があった。芽かきや摘芯などの作業を選句の合い間にしているという話も、その時に伺った記憶がある。先生が亡くなった今となっては懐かしい思い出である。平成29年作。
「椿」は常緑の肉厚の葉の中に真紅の花を咲かせる。花びらが散るのではなく、花ひとつが丸ごと落ちるので落椿といわれる。
掲句は眼前の咲き盛る椿を詠んだもの。百とも千ともつかない紅椿が辺りの静寂を破らぬまま咲き盛っていた。時間が来れば、自ずからぽたりぽたりと地に落ちていく椿。その椿の咲いている時間が、器に満ちる水のように、「満ちてくるもの」と感じられた。椿の命の充実感が一刻一刻を満たしていた。平成19年作。『春霙』所収。
「春陰」は春の曇りがちな空模様のこと。「花曇り」という言葉もあるが、「春陰」は桜の咲く頃に限らない。どこか心に翳を落とすような空合いだ。
掲句は銀座のとある画廊の扉の重い感触を詠んだもの。人体の形のドアノブを押すと、そこは画廊特有の昼の静寂。絨毯を踏んで絵の前に立つと、都会の真ん中にいることを忘れるほどだが、「春陰」の翳りが、絶えず私の心に付きまとっていた。平成22年作。