太平洋側では、冬になると晴れる日が多く、毎日毎日からからに乾いた空を痩せた雲が風に吹かれてゆく。
掲句は父の逝去に際しての諸作の一つ。四十九日の法要を済ませて納骨する頃は、既に11月の立冬を過ぎていた。奥武蔵の杉山檜山に囲まれた墓へ坂を上りながら、母が父の位牌を持ち、私が父の骨壺を抱いた。住職にお経を唱えてもらい、骨壺を納めた。骨壺が穴底のコンクリートに触れた瞬間、こつんと冷たい音がした。山間(やまあい)に既に到来している冬の音だった。平成11年作。『河岸段丘』所収。
太平洋側では、冬になると晴れる日が多く、毎日毎日からからに乾いた空を痩せた雲が風に吹かれてゆく。
掲句は父の逝去に際しての諸作の一つ。四十九日の法要を済ませて納骨する頃は、既に11月の立冬を過ぎていた。奥武蔵の杉山檜山に囲まれた墓へ坂を上りながら、母が父の位牌を持ち、私が父の骨壺を抱いた。住職にお経を唱えてもらい、骨壺を納めた。骨壺が穴底のコンクリートに触れた瞬間、こつんと冷たい音がした。山間(やまあい)に既に到来している冬の音だった。平成11年作。『河岸段丘』所収。
「木守(きまもり)」は収穫の後に一つ二つ木に残しておく柿の実や柚子の実などをいう。榠樝(かりん)その他の果樹でも、収穫の後梢に残っている実を見かけることがある。翌年の実生りへの祈りからともいわれる。
掲句は、中央線で笹子口を抜け甲府盆地に入ったときの情景を句にしたもの。家々の庭の柿や柚子、榠樝は、おおかた捥がれて梢に二、三残すのみだったが、初冬の山国の空を背景に、色鮮やかに目に残った。山梨は飯田蛇笏、龍太父子が生涯を過ごした地であり、甲府盆地に入った心の昂ぶりが、この句の弾むようなリズムになって表れていると思っている。平成27年作。
「春隣」は「春近し」ともいい、近づいてくる春を待つ心が込められている冬の季語。
掲句は、冬も終わりの頃、ときどき家に遊びに来る孫を外に連れ出したときの作品。対象は2歳になったばかりの男の子で、日向を歩く鳩や雀を目敏く目で追っていた。彼は泊まりに来るたびに言葉が増え、悪戯が増え、その成長ぶりに驚かされるが、「孫」と表現しては句が甘くなって佳句が得難いとよく言われるので、「みどりご」と普遍的な表現を用いて、孫と祖父という関係を作品から消し去ることにした。令和5年作。
「雪晴」は、雪が降り止んだ後の晴天のこと。特に、たっぷりと雪が降り積もった後の晴天を「深雪晴(みゆきばれ)」という。降り積もった雪に日光が反射して、眩しいほどの明るさ。空は青々と雲一つなく晴れわたっている
掲句は、雪が降り積もった海ノ口牧場(八ヶ岳東麓)の牛舎を訪れたときの作品。既に空には雪雲の名残はなく、眩いばかりの雪後の光が辺りに満ちていた。ひと気ない牛舎の軒下には、夜間の凍結を防ぐためか、水道の蛇口から水が流れ落ちるにまかせてあった。平成6年作。『河岸段丘』所収。
「久女の忌」は1月21日。杉田久女は明治23年鹿児島生まれ。高浜虚子に師事し「ホトトギス」で活躍したが、俳句への一途な情熱と直情径行の個性は周囲の理解を得られず、ホトトギス同人を除名され、失意のうちに昭和21年のこの日、筑紫保養院で病没した。
掲句は、咲いていたときの姿を保ったまま枯れた草の姿に、久女の悲運の生涯を重ね合わせた作品。「名草枯る」といっても実際に句に詠むときは具体的な草の名前を詠み込むことが多い。私が実際に目にしたのはすっかり枯れて色の失せた鶏頭だが、「枯鶏頭」では草の個性が出過ぎて表現したいことが伝わらないと考えた。令和5年作。