「木の葉」は、冬、地面に落ちてしまった葉、あるいは梢にわずかに残っている枯葉をいう。
掲句は木の葉が頻りに降りかかる初冬の櫟林の道を歩いていての一句。〈吊橋や百歩の宙の秋の風 秋櫻子〉など「十歩」「百歩」を用いた句があるが、歩きながら何かを思ったり考えたりするには「百歩」くらいの距離が要るのではないだろうか。初冬の心地よい冷気の中、ほとんど無心の状態で歩きながら、そんなことを頭に浮かべていた。令和6年作。
「木の葉」は、冬、地面に落ちてしまった葉、あるいは梢にわずかに残っている枯葉をいう。
掲句は木の葉が頻りに降りかかる初冬の櫟林の道を歩いていての一句。〈吊橋や百歩の宙の秋の風 秋櫻子〉など「十歩」「百歩」を用いた句があるが、歩きながら何かを思ったり考えたりするには「百歩」くらいの距離が要るのではないだろうか。初冬の心地よい冷気の中、ほとんど無心の状態で歩きながら、そんなことを頭に浮かべていた。令和6年作。
寒梅は寒中に咲く梅全般をいう。寒紅梅は12月頃から咲き始める紅色または淡紅色の梅で、多くは八重咲き。
掲句は眼前の寒紅梅の濃い紅から、「遺志」ということに思いを馳せた作品。その時心の中にあったのは前年に亡くなった飯田龍太のことだが、この句は特定の誰かに限定する必要のない句だと思っている。この世に生きる誰もが、志の一部を果たせないまま亡くなっていく。その思いは言葉にならなくても、伝わる人には無言のままでも伝わるのだと思う。平成20年作。『春霙』所収。
「狐火」は冬の夜、山野や墓地に見える怪しい火のことで、狐が口から火を吐いているの俗説に基づく。火が見える実際の原因は明らかにされていない。
掲句は夜が明ける前の地元の鎮守社の境内での作品。「堂守の灯」は、実際には当神社の神主が早朝二、三のお堂を見回るときの懐中電灯の明かりなのだが、暗がりにその灯が揺らめくさまは、狐火を思わせた。平安時代の延喜21年京都・石清水八幡宮を勧請して創建されたというから、既に千年以上の由緒を持つ神社だが、杜の中の社殿は廃れるままで、確かに狐の棲みつきそうな雰囲気があった。令和5年作。
「息白し」は冬になり気温が低くなると、人や動物の吐く息が白く見えること。冬の到来を感じる現象だが、豊かな白い息には生きている実感がある。
掲句は、壁に掛けられた能面の物言いたげな気配を感じての作品。能面の半開きの口は、ものを言う寸前の形のまま静止している。その表情も、悲喜の情がうごきだす前のどこか曖昧な表情のままで、動の前の静といった風情。その能面がものを言えば、生身の人間のように白い息を吐くのだろうか。そんな筈はないのだが、そのような想像へ誘うところが、目の前の能面にはあった。平成27年作。
「クリスマス」は12月25日のキリスト降誕祭のこと。その前夜をクリスマスイブという。キリスト教になじみの薄いわが国においても、クリスマスツリーを飾るなど、この時期、街はクリスマス一色になる。
掲句は街中のクリスマス気分が、街外れの工事現場のクレーンにも及んでいることに興趣を感じての作品。クリスマスツリ-から街路樹や看板まで、この時期街中はきらびやかな電飾に溢れる。街中だけでなく、常の夜ならば真っ暗になる工事現場のクレーンにも電飾がほどこされていた。工事現場で働く人たちやそこを通り過ぎる人たちにも、クリスマス気分をお裾分けしているような光景だった。令和元年作。