晩秋になり、草が上部や先の方から枯れてくること。灌木の葉先の枯れはじめにもいう。草木が乾いた風に揺れながら枯れてゆくさまは、秋の深まりを感じさせる。「末」とは「先端」の意。

晩秋になり、草が上部や先の方から枯れてくること。灌木の葉先の枯れはじめにもいう。草木が乾いた風に揺れながら枯れてゆくさまは、秋の深まりを感じさせる。「末」とは「先端」の意。

草木の紅葉や黄葉の美しさだけでなく、秋の気配や気分、光の透明感などにもいう。秋の風光の爽やかさ、清々しさとともに、さびしさも感じられる言葉。秋光とも。

庭などで、一部分を区切り土を盛り上げるなどして草花を植えた所のことで、俳句では秋の季語になっている。澄みわたった秋空の下、華やぎや明るさ、静けさを感じさせる。草の花、花野が秋の季語とされているのと同様、秋の草花の風情への愛着が生んだ季語。

刈り取った稲を天然乾燥させるための木組みのこと。田の中に設けた簡単なものから樹木に竹を結わえ数段にも及ぶものまで様々だ。刈り取った稲の束を稲架に掛けて数日干し、脱穀する。現在では生脱穀、火力乾燥の方法が多くとられ、稲架などによる天日干しは少なくなった。

飯田蛇笏(本名武治)は昭和37年10月3日郷里の山梨県笛吹市旧境川町の自宅で死去。77歳。早稲田大学を中途退学して帰郷し句作に専念。大正年代の『ホトトギス』の雑詠欄(虚子選)で活躍し、のちに『雲母』主宰。代表句に〈芋の露連山影を正しうす〉〈誰彼もあらず一天自尊の秋〉など。秋がたけなわになる頃、蛇笏忌が巡ってくる。蛇笏の句風については、「・・俳句のもつ格調の高さ、正しさにおいて、ついに彼の右に出づる者は見当たらぬのである。」との山本健吉の評がある。
