霞む日の夫婦一男一女連れ
「霞」は春の山野に水分を含んだ大気が立ち込め、遠くの景色がぼんやりとかすむ様をいう。のどかな春の景色となる。
掲句は子を連れての外出の一日を詠んだものだろう。当時作者は37歳、県立高校に勤務していた。7年前に長男、3年前に長女が生まれている。一家の外出の日に目にしたであろうあれこれを一切省略して、「霞む日」に集約したところがいい。茫洋と霞む四囲の風景を背景に、壮年期にある作者の内面の揺るぎない充実感が浮かび上がる。昭和41年作。『帰路』所収。
霞む日の夫婦一男一女連れ
「霞」は春の山野に水分を含んだ大気が立ち込め、遠くの景色がぼんやりとかすむ様をいう。のどかな春の景色となる。
掲句は子を連れての外出の一日を詠んだものだろう。当時作者は37歳、県立高校に勤務していた。7年前に長男、3年前に長女が生まれている。一家の外出の日に目にしたであろうあれこれを一切省略して、「霞む日」に集約したところがいい。茫洋と霞む四囲の風景を背景に、壮年期にある作者の内面の揺るぎない充実感が浮かび上がる。昭和41年作。『帰路』所収。
月光は川原伝ひに雛の家 直人
「雛」(ひな)は雛人形のことであり、また、「雛の家」は雛人形が飾られている家のこと。女児の健やかな成長を願う明るく華やいだ気分が感じられる。
掲句の契機は自宅近くを流れる日川(にっかわ)の川原と思われるが、特定の川や場所を想定して読む必要のない作品である。川に沿う月夜の家路を辿る作者が思い浮かべている「雛の家」の明るさと華やぎが、読者にも感じられれば足りる。「雛の家」は作者の家路の先に、帰るべきところとして明るく灯っているのだ。帰るべき家を持つ作者の幸福感や安寧の思いも感じられる。昭和51年作。『日の鳥」所収。
全貌といふ初富士に会ひにゆく 直人
「初富士」は元旦などにその年の最初に見る富士山のこと。雪を頂いた清々しい姿や、初日の出を浴びている様は、新しい年を迎えた気分に相応しい。
掲句は、新たな年を迎えて「初富士」に会いに行くところを詠む。作者の住む甲府盆地からは、全貌の富士を目にすることができないのだ。だが、この句では、「初富士」はまだ作者の眼前には現れていない。この句の焦点は「初富士」そのものではなく、新年を迎えて「初富士」に見(まみ)えんとする作者の心の弾みにある。「初富士」を眼前にする前の作者の心の逸りが、そのまま作品の気息になっている。「全貌といふ」とのさり気なく置かれた上七の措辞に熟練の味わいがあろう。平成20年作。『風の空』所収。
藍を着て藍匂はせる除夜詣 直人
「除夜詣」は大晦日の夜から元旦にかけて、一年の感謝と新年の無事を祈り、翌年の恵方に当たる神社仏閣に参詣すること。現代では、年が明けてから参拝する「初詣」が一般的になっている。
掲句は住まい近くの産土(うぶすな)の神社に「除夜詣」に出掛ける作者自身を詠んだもの。藍染の作務衣は作者の日常着でもあるが、この夜ばかりは新調の作務衣を着て出かけたのだ。天然藍を発酵させる際に出る藍染特有の匂いは、着古すにつれて薄れてゆくが、新調の藍染には生(き)のままの匂いがある。その匂いに、新年を迎える改まった思いが重ねられている。平成22年作。『風の空』以降の作品。
正月の雪真清水の中に落つ 直人
「正月」は一年の一番初めの月(一月)のことだが、特に三が日や松の内(関東は7日まで、関西は15日まで)が正月気分に浸る期間。新たな年を迎えてのめでたい雰囲気がある。松飾を立て、鏡餅を飾り、雑煮を食べて一年の無病息災を願う。
掲句は自他ともに認める直人の代表作である。作者の自句自解によれば、新年会に山廬を訪れたときの作品であり、当日は、前の晩から降り続いた雪が朝になって止んだという。山廬裏山の湧水といい、降り止んだばかりの雪といい、素材が揃っている中で佳句を得た訳だ。対象との一期一会の出会いを活かせるかどうかが、作句の分かれ道なのだろう。
加えて、この句のポイントは上五の「正月の」にあることを指摘しておきたい。飯田龍太は、この句について、「「真清水」の澄み、まさにここに極まった感がある。」云々と鑑賞しているが、なぜ上五が「一月の」「元日の」ではなく「正月の」なのかについての具体的な言及はない。だが、この句で点睛の働きをしているのは、「正月」という上五に据えられた季語だろう。上五に「正月の」と置いたことにより、句に馥郁とした華やぎが生まれた。白銀の雪の世界に紅を点じたような趣である。この辺りの季語の選択は、一筋縄ではいかないところ。昭和47年作。『日の鳥』所収。