囀りは、鳥たちが求愛や縄張りを知らせる鳴き声。冬の間は藪などにひそんで人目につかなかった鳥たちが、春になると、人目をはばからず木のてっぺんなどに姿を現し、美しい声で囀りはじめる。
掲句は、明日渡る予定の島を沖に見ながら、これから目に触れるであろう島の景物をあれこれ思い描いていると、身ほとりの樹頭で鳥が囀り始めたとの句意。明日を疑わないような明るい鳥の声が、旅中の作者を包む。春の伸びやかな旅情と微かな懈怠が感じられる作品だ。『俳句』2023年6月号。
囀りは、鳥たちが求愛や縄張りを知らせる鳴き声。冬の間は藪などにひそんで人目につかなかった鳥たちが、春になると、人目をはばからず木のてっぺんなどに姿を現し、美しい声で囀りはじめる。
掲句は、明日渡る予定の島を沖に見ながら、これから目に触れるであろう島の景物をあれこれ思い描いていると、身ほとりの樹頭で鳥が囀り始めたとの句意。明日を疑わないような明るい鳥の声が、旅中の作者を包む。春の伸びやかな旅情と微かな懈怠が感じられる作品だ。『俳句』2023年6月号。
祝婚歌は、古代ギリシャ以来発展した文学形式の一つで、新郎新婦を褒め称え、その結婚を祝す歌。日本で祝婚歌といえば、吉野弘の同名の詩を思い起こす人も多いだろう。
掲句は、その祝婚歌が書かれないままだという。その理由が書き手の側にあるのか、それとも新郎新婦の側にあるのかなどの説明は全くなされずに、事実だけが読者に投げ掛けられる。折から一年で最も麗しい季節である5月。祝婚歌を書くには最も相応しい季節だ。そのことが、読む者の想像力を一層刺激する。『文藝春秋』6月号。
「袋角(ふくろづの)」は、毎年、春に鹿の角が根元の部分から落ちた後、新しく発育を始めた角のこと。皮膚をかぶって、それが袋に似た状態であるところから、このように呼ばれる。
掲句は、袋角の牡鹿が、東大寺の南大門を出てきたとの句意。南大門は築千年の歴史を誇る国内最大の山門であり、奈良のシンボルでもある。奈良に住む人々や参拝者ばかりでなく、鹿にとっても、日頃親しんでいる建造物なのだ。その大門と、毎年生え変わる角を持ち歩く鹿の取り合わせには味わいがある。奈良時代から続く人と鹿との関わりにも、一読想像が広がる。『俳句』2023年6月号。
「蝌蚪(かと)」は、蛙の幼生。お玉杓子ともいう。卵から孵った後、暫くの間は無数にかたまっているが、成長に従い、尾や手足を使って泳ぎ出す。
掲句の「蝌蚪の国」は、水底を覗き込んだとき、無数の蝌蚪が「国」と呼べるような一つの社会を形成しているように見えることをいう。その「蝌蚪の国」も、我が影の中に納まってしまう程の小さな存在に過ぎない。そして、人間も、天地を司る神の目から見たら、この上なく微小な存在である。作者にとって、この世に存在するということの不思議さを感得した一瞬だったのだろう。『俳句』2023年6月号。
「鶯」(うぐいす)は日本の三鳴鳥の一つで、春になると山から里に現れて美しい声で鳴くため、古来から、春を告げる鳥として親しまれてきた。警戒心が強く、羽の色も地味なため、声が聞こえても姿を見る機会は少ない。鳴き声としては、ホーホケキョと聞きなす囀りのほか、ケキョケキョケキョと続けざまに鳴く「谷渡り」といわれるものがある。「谷渡り」は繁殖期のオスが出す声の一つで、メスに危険を知らせたり侵入者や外敵を威嚇する意味をもつという。
掲句は、釣果を求めないとの句意に加えて、そのゆったりとした声調が、渓流釣りの醍醐味を感じさせる作品。釣り場を定めて糸を垂れると、折から聞こえる「鶯の谷渡り」。清流の響きや森の匂いに溶け込んで過ごす釣りの一日に、作者の心は伸び伸びと解放されるのだろう。『俳句』2023年6月号。