「古年(ふるとし)」は年明けに、去った前年を振り返ってさす言葉。一方、「新玉(あらたま)」は始まったばかりの年のこと。年の始め。
掲句は、去ったばかりの年も新たに迎えた年も、色彩に譬えればすずしろの白だという。すずしろ(清白)はアブラナ科の二年草で、大根の古名。春の七草の一つで、七草粥に入れる七草の中でも、俎板の上のその白さは印象的だ。その清潔な白は、旧年を送り、また、新たな年を迎えた作者の心境を映し出しているようだ。『俳句』2026年1月号。
「古年(ふるとし)」は年明けに、去った前年を振り返ってさす言葉。一方、「新玉(あらたま)」は始まったばかりの年のこと。年の始め。
掲句は、去ったばかりの年も新たに迎えた年も、色彩に譬えればすずしろの白だという。すずしろ(清白)はアブラナ科の二年草で、大根の古名。春の七草の一つで、七草粥に入れる七草の中でも、俎板の上のその白さは印象的だ。その清潔な白は、旧年を送り、また、新たな年を迎えた作者の心境を映し出しているようだ。『俳句』2026年1月号。
「御慶(ぎょけい)」は家族、親戚、友人、知人、近隣の人たちの間で年始に交わされる挨拶のこと。普段は親しんだ間柄でも、改まって去年の礼を述べ、新年のよき付き合いをお願いする。
掲句は、年始に人間の間で交わされる「御慶」が小鳥たちの間でも交わされていて、その声が切株に降り注いでいると詠む。メジロはメジロ同士、ヒヨドリはヒヨドリ同士で、よき年を迎えたことを喜び合っていると考えるのは、確かに楽しい。地平線を離れた太陽の光が、樹上の鳥たちにも、樹下の人々にも満遍なく生の喜びを与えていることだろう。『俳句』2026年1月号。
「初晴(はつばれ)」は元日の晴天のこと。年が改まって早々の澄んだ空と輝く日差し。五穀豊穣をもたらす吉兆として喜ばれる。
掲句は、元日の朝の清々しい「初晴」の空を仰ぎながら、晴女だった亡き母を思い起こしているとの句意。「母のやうなる初晴」との措辞から、母の人となりが見えてくる。よき年を迎えた晴れ晴れとした思いとともに、新たな年が歩み始める。胸中の母もともに歩んでいるのだろう。『俳句』2026年1月号。
「神の旅」は旧暦10月に、全国の神々が出雲大社へ集まるために旅立つこと。男女の縁を結び給うために集まるとされる。出雲以外の国々では神が不在になるため、この月は「神無月」と呼ばれ、神々が集まる出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ばれる。
掲句は、「あるき神」の旅の様子を思い浮かべての作品。歩き神は人々をそぞろ歩きや旅へと誘い出す神様のこと。「そぞろ神」などとも呼ばれる。普通の神々は龍蛇に乗って旅するとも言われているが、「あるき神」はその名のとおり、歩いて出雲に参集するのだろうと作者は想像した。空想に空想を重ねたような作品だが、「あるき神」という言葉のもつ諧謔味が活かされている。『俳句四季』2026年1月号。
「正月」は一般的には1月1日から7日までの松の内を指すが、地域によっては15日の小正月までを正月と呼ぶこともある。松飾を立て、鏡餅を飾り、雑煮を食べて一年の無病息災を願う。
掲句は、新年を迎えて改まったように見える人の顔を詠む。「大年(おおとし)」は大晦日こと。「大年」から一夜経て「正月」になる。人の顔は一晩で変わるものではないが、「正月」の風景の中で眺めると、自他を含め、誰もがいかにも「正月」らしい顔になっているのだ。単明な表現だが、単刀直入な「顔」のリフレインにこの句の味わいがある。『俳句四季』2026年1月号。