「年来る」は「新年」の傍題で、始まったばかりの年のこと。年の始め。新しい年神を迎えてさまざまの行事がある。
掲句は新年の季語「年来る」を用いながら、大晦日の夜、来たるべき年に思いを馳せての作品。旧年が歩み去ろうとしている今、「来る年」は今どの辺りを歩んでいるのだろうと。卓上の碗には白湯が注がれ、湯気が立ち上っている。身辺の些事を捉えた「白湯に湯気」が絶妙な味わい。新年の季語を柔軟に用いて、新たな年を迎える前の心の襞をさり気なく表出している。『俳句四季』2026年1月号。
「年来る」は「新年」の傍題で、始まったばかりの年のこと。年の始め。新しい年神を迎えてさまざまの行事がある。
掲句は新年の季語「年来る」を用いながら、大晦日の夜、来たるべき年に思いを馳せての作品。旧年が歩み去ろうとしている今、「来る年」は今どの辺りを歩んでいるのだろうと。卓上の碗には白湯が注がれ、湯気が立ち上っている。身辺の些事を捉えた「白湯に湯気」が絶妙な味わい。新年の季語を柔軟に用いて、新たな年を迎える前の心の襞をさり気なく表出している。『俳句四季』2026年1月号。
「霧」は秋の朝や夕方に地表付近が冷やされて発生する水蒸気の微粒子が空気中に漂う現象。
掲句には場面についての限定はないが、朝夕の冷え込みにより山野に立ち込める霧を思い浮かべたい。山岳地帯の緩斜面のトレッキングコースでもいいかも知れない。「こめかみ」の辺りから霧が晴れてきたとは、虚実を含めた把握・表現。霧が晴れたときサッと頭上から差す日差しが、作者の内面まで明るく照らし出す。省略を極めているが、若々しい情感を持つ作品である。『俳壇』2026年1月号。
「厄払(やくばらい)」は節分の夜、厄年の人が社寺などに参詣して厄を落とすこと。神仏に祈って、厄年にありがちとされる厄難(やくなん)を払い落とす儀式を行う。櫛や褌をわざと落としたり、自分の干支を書いた護摩を神社で焚いてもらったりする。
掲句は、「厄払」の祭壇に供えられていた鬼柚子を詠んだ作品。境内などに生っている鬼柚子でもいい。ともかく、その鬼柚子を悪相と捉えたことが、この句のポイント。鬼柚子は獅子柚子ともいい、その大きな見た目や名前から、邪気を払う縁起物として古くから親しまれている。そのごつごつとした見た目は、禅僧のいかつい容貌を思わせ、いかにも邪気を払ってくれそうだ。『俳壇』2026年1月号。
「霜晴」は冷え込んで霜が降りた夜、又は霜が降りた日の快晴の状態を指す。晴れた寒い夜、空気中の水蒸気がそのまま冷え、屋外の物や地面に触れて霜が降りる。
掲句の「霜晴」には、刺すような朝の寒気を思いたい。「挑(いど)まねば老い容赦なし」との措辞は、老いを自覚した作者が自らに向けた言葉。表現者としての自身を叱咤する表現だ。「霜晴」の青ひと色の空は、作者のそうした思いを受け止めて翳りをとどめない。『俳句』2025年12月号。
「まるめろ」はバラ科マルメロ属の落葉低木又は小高木。初夏の頃、白又は淡紅色の花をつけ、秋に実が黄熟する。香りがよく、主に果実酒やジ ャムなどに利用される。
掲句は、創(きず)のついた「まるめろ」の梨やリンゴのような甘く芳醇な香りを、「みづうみの匂ひ」と感受した。一読、読者は、広々とひらける秋の湖をイメージすることになる。秋晴れの下の明るい湖面と黄熟した「まるめろ」とはよく調和する取り合わせだ。若々しい感性が活かされている『俳句』2025年12月号。