桐はキリ科の落葉高木。初夏、枝先に淡紫色の花をつけた後、卵形の実を結ぶ。熟すと固くなって二つに裂け、翼のある種子を多数飛ばす。

桐はキリ科の落葉高木。初夏、枝先に淡紫色の花をつけた後、卵形の実を結ぶ。熟すと固くなって二つに裂け、翼のある種子を多数飛ばす。

秋暑は残暑ともいい、立秋を過ぎてもなお残る暑さのこと。暑さのピークは過ぎたとはいえ、いつまでも続く暑さにはうんざりさせられる。
掲句は、ハンガー(洋服掛け)にハンガーが掛けてあるという室内の情景を句にした。掛けるところのないハンガーをハンガーに掛けるというのは、よくあることだ。そこに人の気配はなく、ただ秋の暑さが辺りを支配している。描写にことさら意味を求めないことが、この句に無機的な新鮮さをもたらしている。『文藝春秋』2023年11月号。
水木は初夏に真っ白な小花を泡立つように咲かせた後、球形の小さな青い実を結ぶ。実は、秋の初め頃赤みを帯び、10月頃には暗紫色になって、椋鳥などが食べに集まるようになる。

涼しさや海に入れたる最上川 芭蕉 初案は、元禄2年6月14日、酒田の寺島彦助亭での歌仙の発句。最上川が自らを海に流し入れているとの句意。「涼しさ」は、主人への挨拶の心を込める。彦助亭の座敷は、最上川の河口に面していた。その大景を目にして涼しさを感じたというのは、その時の芭蕉の実感でもあっただろう。暑さの盛りの旅にあって、束の間味わう寛いだ気分も感じられる。
暑き日を海に入れたり最上川 芭蕉 前掲の句をこのように改作したのは、『おくのほそ道』の旅後だろう。「暑き日」には、暑い一日の意と暑い太陽の意があるが、この句は、最上川が暑い太陽を海に流し入れたとの意。旅中に見た水平線の彼方に没する夕日の光景が、芭蕉の脳裏に焼き付いていたのだ。自ずから夕暮時の涼味が感じられるが、涼味以上に大河と太陽とが相搏つような自然のダイナミズムが前面に出ている。大河が太陽を海に流し入れたとの斬新な把握には、今日の多くの詩人・俳人も脱帽せざるを得ないだろう。元禄人としてのものの見方の限界を突き破ったといえる。これも辺境への旅の成果だろうか。