学校の「夏休み」は、地域による違いはあるが、関東近辺では7月下旬から8月いっぱい。会社でも、夏季休暇として、特別の休暇を認めているところは多い。特に子供にとっては、夏休みを迎える解放感には、格別のものがあるだろう。
掲句は、町中で見掛けた情景をそのまま句にしたもの。母親が、兄弟らしき2人の子と手をつないで歩いていた。学校が夏休みに入る時期になると、戸外で見掛ける子供の数が急に増えるような気がする。親たちも、子供たちと一緒になって夏の解放感を楽しんでいるのだろう。
学校の「夏休み」は、地域による違いはあるが、関東近辺では7月下旬から8月いっぱい。会社でも、夏季休暇として、特別の休暇を認めているところは多い。特に子供にとっては、夏休みを迎える解放感には、格別のものがあるだろう。
掲句は、町中で見掛けた情景をそのまま句にしたもの。母親が、兄弟らしき2人の子と手をつないで歩いていた。学校が夏休みに入る時期になると、戸外で見掛ける子供の数が急に増えるような気がする。親たちも、子供たちと一緒になって夏の解放感を楽しんでいるのだろう。
「涼し」は夏の季語。暑い夏だからこそ、涼しさに敏感になり、風やせせらぎや木陰など、暫くの間だけでも感じられる涼しさを楽しむ。
掲句は、公園を散歩していての作品。コロナ禍の外出自粛の日々の中で、朝の散歩は生活のリズムを作るうえで大切な日課だった。公園では若者や老人が、それぞれの歩幅でジョギングや散歩を楽しんでいた。誰からも干渉されないで身体を動かす朝の時間は、誰にとっても貴重なのだ。令和2年作。
「青棗」(あおなつめ)は、棗のまだ熟さない青々とした実のこと。初夏に芽を出した棗は、葉の根元に淡黄色の小花をつけ、程なく青い実を結ぶ。
掲句は、保育園の園庭の棗が素材になっている作品。ほとんど毎日そこを通るので、芽が出て目立たない花をつけ、実を結んでそれが少しずつ成長してゆく様がよく観察できた。棗の花も実もこれといって目を引くところはないが、実を結んだばかりの瑞々しい青さは、印象的だ。その野趣のある趣から、それぞれ型にはまらずに独自の道を歩んだ楸邨の弟子といわれる人たちのことを思い浮かべた。平成29年作。
竹は初夏の頃、新しい葉を出し、黄ばんだ古い葉を落とす。音もなく降りしきる竹の落葉に、かすかに竹の葉擦れの音が交じる。掃いても掃いてもきりがないほどだ。「落葉」は冬の季語だが、「竹落葉」は夏の季語。葉を落とした竹は、秋には瑞々しい緑となる。
掲句は、竹落葉を浴びながら、日々作っては捨てる自作のことを思っての作品。とある寺の境内の午下の静寂の中で、竹落葉の一片、一片が、日々詠み捨てる詩句の欠片のような錯覚を覚えた。平成25年作。
「浴衣」は、外出用のものもあるが、普通はくつろいで着る夏の家庭着。旅館の客室には、たいてい糊の利いた浴衣が用意されている。温泉に浸かった後浴衣に着替えると、心の底から旅の解放感を覚える。
掲句は、句友4、5人と木曽福島に一泊したときの作品。八方を取り囲む山々は既に暮れ切っていたが、山々の存在を確かに感じながらの旅泊だった。目には定かに見えないものの存在感が、掲句から感じ取れれば幸いだ。平成21年作。『春霙』所収。