四季を通して月は見られるが、「冬の月」は寒さの中で仰ぐ月であり、その冴え冴えとした光には静かで研ぎ澄まされた美しさと荒涼たる寂寥感がある。
掲句は眼前に昇った「冬の月」を詠んだ作品。遮るもののないその冴え冴えとした月光の中で胸裏に浮かんだのが、かつて見た釈迦如来像や阿弥陀如来像の印を結んだ繊い指だった。人を差し招くような、また、拒むような如来の手の印象が、長い間私の心の中に残っていたものと見える。平成19年作。『春霙』所収。
四季を通して月は見られるが、「冬の月」は寒さの中で仰ぐ月であり、その冴え冴えとした光には静かで研ぎ澄まされた美しさと荒涼たる寂寥感がある。
掲句は眼前に昇った「冬の月」を詠んだ作品。遮るもののないその冴え冴えとした月光の中で胸裏に浮かんだのが、かつて見た釈迦如来像や阿弥陀如来像の印を結んだ繊い指だった。人を差し招くような、また、拒むような如来の手の印象が、長い間私の心の中に残っていたものと見える。平成19年作。『春霙』所収。
「冬桜」は11月頃から翌年1月頃にかけて一重の白い花をつける。ヤマザクラとマメザクラの自然交配種とされる。寒さの中で疎らに咲く花の楚々とした佇まいは印象的だ。
掲句は、地元の小学校の校庭に植えられている「冬桜」の佇まいを詠んだもの。咲き盛るというにはほど遠く、ぽつぽつと花を咲かせている「冬桜」の、どこか床しい印象を言葉で捉えようとしてこんな句になった。「冬桜」を愛でるとき、花の一輪一輪が最も澄んで感じられる程よい距離があるようだ。平成16年作。『春霙』所収。
「草城忌」は俳人日野草城の忌日で、1月29日。1956年のこの日、54歳で死去。草城は、初期の写生を基盤とした華麗でモダンな句風から、中期の無季を容認した革新的な新興俳句へ、そして、主として病床で過ごした晩年には静謐で人生の深みを見つめる句風へと変化した。
掲句は、冬に長野の野辺山高原に滞在したときの作品。八ヶ岳を越えてくる北西の風に、夜昼となく山が鳴り、風花(かざはな)が舞った。風花は本来は青空に舞う雪のことだが、からりと晴れた夜空に舞う雪を風花と呼んでもいいだろう。自分の唇を意識したところに、若年の頃の草城の句風に通じるものがあると感じた。平成17年作。『春霙』所収。
落葉樹が葉を落とすのは、晩秋から冬にかけてである。「落葉」は散った木の葉のことだが、木の葉の散る様や、地面や水面に散り敷く様をも表わす。「落葉」「木の葉」はいずれも冬の季語。
掲句は「落葉」がしきりに舞う中で、自らの内面を省みてふとできた作品だが、何とも解説し難い句だ。木々が枯れ急ぐ「落葉」の季節に感じる自分自身への思いを形象化したともいえる。「坩堝(るつぼ)」は高熱を利用して物質を溶かしたりするときに使用する耐熱容器で、この句の場合はもちろん比喩。「坩堝のようなもの」との意味合いだ。日々を忙しなく過ごしていた当時の私の内面の一端が垣間見える一句。平成16年作。『春霙』所収。