「花万朶(はなばんだ)」は花の傍題。「朶」は垂れ下がった枝の意。 多くの花の枝又は多くの花のこと。人を覆い尽くすような満目の花が思い浮かぶ言葉。
掲句は、花冷えの朝、近くの疎水べりの桜に沿って歩いたときの作品。八重桜や彼岸桜も交っているがほとんどが染井吉野で、一斉に花期を迎える頃は見ごたえがある。どこまでも桜並木が続くので、知らず知らずのうちに遠くまで来てしまうこともある。近年はどの桜も老木になり、樹勢の衰えは隠せないのだが・・・。令和5年作。
「花万朶(はなばんだ)」は花の傍題。「朶」は垂れ下がった枝の意。 多くの花の枝又は多くの花のこと。人を覆い尽くすような満目の花が思い浮かぶ言葉。
掲句は、花冷えの朝、近くの疎水べりの桜に沿って歩いたときの作品。八重桜や彼岸桜も交っているがほとんどが染井吉野で、一斉に花期を迎える頃は見ごたえがある。どこまでも桜並木が続くので、知らず知らずのうちに遠くまで来てしまうこともある。近年はどの桜も老木になり、樹勢の衰えは隠せないのだが・・・。令和5年作。
「鷹鳩と化す」は現在の太陽暦で3月16日から20日の頃、春の穏やかな気配の中で、普段は獲物を狙う猛禽類の鷹も、ほのぼのとした鳩に変身してしまうこと。
掲句は、普段は使わないがらんとした蔵二階にも小窓を通して戸外の日差しが差し入り、鷹が鳩に化す頃の陽春の気配が感じられるとの句意。ひっそりとした蔵二階にも、細々とながら、駘蕩とした春の気配が及んでいるのだ。父の生家にあった納屋の二階の雰囲気が丁度こんな感じだった。かつては養蚕で繁忙を極めたであろう納屋の二階も、当時、既にがら空きの状態だった。令和5年作。
「土筆(つくし)」はトクサ科の多年草である杉菜の胞子茎をいう。仲春の頃から日の当たる土手や畦道、野原などに生える。筆のような形をしているのでこの名がある。また「仏生会(ぶっしょうえ)」は釈迦の誕生日とされる4月8日にその降誕を祝う法会のこと。
掲句は、摘んできた土筆を和えて朝食の一品にしたとき、丁度仏生会の頃だと心づいての作。仏家(ぶっけ)の生活には縁のない私であるが、その日常に思いを巡らせた。この時期、空き地や土手などに一斉に土筆が生える。道すがら一掴みほど摘んで、和え物にする。その仄かな色合いと苦みは、春ならではのもの。令和6年作。
「啄木忌」は歌人石川啄木の忌日(4月13日)。啄木は明治19年に岩手県に生まれ、最初「明星」派の詩人として登場。やがて小説家を目指して職や住居を転々とした。明治45年、26歳で没。
掲句は、郊外に野遊びに出たとき、摘み溜めた草を戯れに水に投げ込んだ自らの動作を、啄木忌と取り合わせた作品。晩春の野にあって、社会の壁や闘病など思うにまかせなかった啄木の生涯や、その歌のもつ鬱屈した青春性を思い起こした。平成27年作。
燕が南方から渡ってくるのは春半ば。初めは空高く飛翔しているが、しばらくすると人家の軒などに巣を作り雛を育てる。今年(令和7年)は、4月2日に近くのビルの屋上テラスで分厚い雲の下を翔けているのを見かけた。
掲句は高空に初燕を見かけての作品。燕を見かけるときは、既に渡ってきて数日を経、日本の空にも慣れてきている様子だ。風が目に見える訳ではないが、上空には、風と風がぶつかり合い、揉み合う感じがどことなくあった。南方から海を越えてやってきた燕に、本格的な春の到来を思った。平成26年作。