露草は、路傍や庭先などに咲く身近な野の花。その混じり気のない青い花には、夏の暑さに倦んだ命が癒される思いがする。夏もようやく峠を越した頃、いつの間にか咲いている花だ。
掲句は露草の瑠璃色から宇宙に思いを馳せた作品。露草はささやかな野の花だが、その澄み切った瑠璃色は、空の彼方の宇宙へと人の心を誘うところがある。確かに、別々の星に生まれた生き物同士が知り合う機会は、今の科学技術では皆無だろう。将来はどうかわからないが・・・。『俳句四季』2023年11月号。
露草は、路傍や庭先などに咲く身近な野の花。その混じり気のない青い花には、夏の暑さに倦んだ命が癒される思いがする。夏もようやく峠を越した頃、いつの間にか咲いている花だ。
掲句は露草の瑠璃色から宇宙に思いを馳せた作品。露草はささやかな野の花だが、その澄み切った瑠璃色は、空の彼方の宇宙へと人の心を誘うところがある。確かに、別々の星に生まれた生き物同士が知り合う機会は、今の科学技術では皆無だろう。将来はどうかわからないが・・・。『俳句四季』2023年11月号。
暑い夏だからこそ涼を求め、涼に敏感になることから「涼し」は夏の季語。暑さの中で涼しさを求めるのは人間に限らない。
掲句は夏の最中の猫の動きが見えてくる作品。猫は夏の暑い最中は、日差しを避けて涼しい木蔭や家の陰などに憩っている。飼い主である人間や他の猫に気を遣わずに、自分が居たいところにいる、というのが猫の習性だ。「つと」はある動作を素早く、又はいきなりするさまを表す擬態語で、何物にも束縛されない猫の姿を効果的に描き出す。さらりとした描写だが、暑中の猫の姿が生き生きと表現されている。作者は猫好きの人に違いない。『俳句』2023年10月号。
青葉木菟はフクロウ科の夏鳥で、低山や神社の森などに飛来する。青葉の頃の夜、オスはホーホーと二声ずつ鳴く。
掲句は幻想による作品だが、「ことだま売り」との措辞に思わず惹きつけられた。ことだま(言霊)は言葉が持つとされる霊力であり、詩歌に携わる人々は、私を含めて、日々自らが作る詩歌のもつ言霊を信じて言葉で何かを表現しようとしている。実際にこの世に「ことだま売りの老婆」がいて、言霊が手に入ればとの願いが、この句の幻想につながった。『俳句』2023年10月号。
秋暑は残暑ともいい、立秋を過ぎてもなお残る暑さのこと。暑さのピークは過ぎたとはいえ、いつまでも続く暑さにはうんざりさせられる。
掲句は、ハンガー(洋服掛け)にハンガーが掛けてあるという室内の情景を句にした。掛けるところのないハンガーをハンガーに掛けるというのは、よくあることだ。そこに人の気配はなく、ただ秋の暑さが辺りを支配している。描写にことさら意味を求めないことが、この句に無機的な新鮮さをもたらしている。『文藝春秋』2023年11月号。
晩秋は、三秋(初秋・仲秋・晩秋)の末の月のことで、陰暦9月(現行の歴では10月頃)。山野の草木が色づき始め、日々の生活の中で、冬が近づく気配が感じられるようになってくる。
掲句は眼前の大木を擬人化して、晩秋の季節感を感じさせる作品だ。「大きな木」は、樹齢を重ねた欅や樟などを想定したい。晩秋の透徹した空気の中で、眼前の大木がこの世の何もかもを見ているように感じられたという。通常は見る対象である木が、逆にこの世を見ているという捉え方が面白い。『俳句四季』2023年10月号。