海桐(とべら)はトベラ科トベラ属の常緑低木。東北以西の暖地の沿岸部に自生するほか、生垣や庭木として植えられる。初夏の頃、集散花序を出し芳香のある白い小花をつける。秋には黄色の実が裂けて、赤い種が現れる。

海桐(とべら)はトベラ科トベラ属の常緑低木。東北以西の暖地の沿岸部に自生するほか、生垣や庭木として植えられる。初夏の頃、集散花序を出し芳香のある白い小花をつける。秋には黄色の実が裂けて、赤い種が現れる。

これまで、龍太俳句における孤心の表れをみてきたが、次の諸作などには、前掲の諸作とは対照的に、人間に対する関心や、「雲母」の諸友、文人などとの豊かな交友が背景にある。
どの子にも涼しく風の吹く日かな(昭和41年)
晩涼やおのおの語る古俳諧(昭和48年)
日向より帰りし甲斐も秋暑にて(昭和50年)
盃を置いて柚柑の一枝剪る(昭和52年)
掲出の第一句は涼風の中で遊んでいる子供達を詠んだ作だが、作者と子供達との関わりは、作者が対象を観察し、描写するといった一方的な関係ではない。両者はともに同じ風土の中に生を受けたものとして、同じ涼風の中にそれぞれの時を過ごしている。作者が見ているのは、眼前に遊んでいる子供達であるとともに、幼少期の作者自身であり、また、幼くして亡くなった次女の面影でもある。それらの者たちを分け隔てなく涼風が吹き包んでいる。作品は、作者と子供達との一種の「うたげ」(大岡信)から生まれたものである。その「うたげ」は、作者の心の中だけにあるものなのだが・・・。
第二句には、俳句という同好の人々の座の中にあっての打ち解けた愉しい語らいがある。
第三句は、「九州えびの高原 五句」との前書きの付された一連の旅吟の後に収められており、「書信の端に」との前書きがある。年譜には、同年九月「雲母」九州俳句大会に出席とあり、この句が、旅後、大会で交友を深めた句友に認めた書信の端に記した即興の一句であったことが分かる。書信をとおしたこうした交流も、「座の文学」としての俳句の醍醐味だろう。
第四句には、「某日某氏邸」との前書きがあり、歓談の中のさり気ない動作を描写した平淡な作だが、そのさり気なさの中に、即興の味わいとともに、「某氏」との交友の機微が浮かび上がってくる。
龍太自身がエッセイの中で明らかにしているように、「某氏」は井伏鱒二であり、井伏との交友が契機になった作品としては、「I先生芸術院賞受賞」との前書きがある
春風のゆくへにも眼をしばたたく(昭和31年)
や、「爾今「尊魚堂主人」と自称すと来信あれば」との前書きがある
百千鳥魚にも笑顔ありぬべし(昭和63年)
などもある。前掲句の前書きを「井伏鱒二邸」としなかったのは、この句の軽い風趣を活かすには、特定の個人名は不要と考えたのだろう。
去るものは去りまた充ちて秋の空(昭和53年)
この句とよく似たモチーフの作に、
逝くものは逝き冬空のます鏡 蛇笏
があることは前述した。この蛇笏作が、遺された者の埋め合わせようのない孤心が色濃く表出されているのに対して、掲出の龍太作には、去るものが去った後充ちてくるものとの交感がある。両句の包含する情感は対照的だが、その違いの背景には、蛇笏、龍太が戦時に受けた心の痛手の深浅とともに、龍太には、蛇笏以上に、「雲母」の俳人のみならず、井伏鱒二をはじめとする文人との豊かで深い交友があったことを挙げておきたい。
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし(昭和44年)
この句には、孤心と「うたげ」の二つの要素がある。「雪の日暮れ」時の淋しさは誰しも感じることだが、作者はそれを「いくたびも読む文」に譬えた。この譬えには、「文」の遣り取りを通じた豊かな交友が暗示されており、この句を、孤心とともに、作者の心豊かな交友の余韻を同時に感じさせる作にしている。
人声や此道かへる秋の暮 芭蕉
此道や行人なしに秋の暮 〃
両句はほぼ同時に出来たと言われている。「此道」の作が、前述のように、芭蕉の孤心から出た詠嘆だとすれば、「人声」の作は、孤心に徹することのできない芭蕉の人懐かしい心情から生まれた作である。 両句からは、孤心と「うたげ」との間で揺れ動いた晩年の芭蕉の心の在りようが見えてくる。
以上のように龍太俳句には孤心と「うたげ」双方の要素があるが、龍太作品の主軸は、「うたげ」の要素を孕みながらも、自然との一対一の交感を踏まえた「孤心」だろう。龍太語録にある「自然から見られている感じ」とは、自然との交感に軸足を置く作者にして、初めて言い得た言葉のように思われる。
桑は、クワ科の落葉高木の総称。蚕の飼育に活用されている桑のほか、川原や林などに自生の桑を見かけることは多い。新芽がほぐれる晩春の頃、葉腋から小さな花穂が出て、淡い黄緑色の小花の房が垂れ下がる。雄花は花粉を出し、雌花は初夏の頃黒紫色の実となる。単に「桑」といえば春季。

がまずみはスイカズラ科ガマズミ属の落葉低木。日本の各地の山野、丘陵、平地の林などに広く自生するほか、近年では庭木や公園樹としても植えられる。初夏の頃、白い小花を散房状にびっしりと咲かせる。なお、秋に真っ赤に熟す実は「がまずみの実」として秋季になっているが、初夏に咲く花については、ほとんどの歳時記に掲載されていない。

『忘音』に続く句集『春の道』以降の龍太俳句には、作者の「孤心」があらわに詠まれることは殆んどない。そのような個人的な境涯や心情の起伏より、作者を離れても通用する普遍性を志向しているように思われる。
この点については、
冬耕の兄がうしろの山通る(昭和40年)
の自句自解の中で、「俳句は「私」に徹して「私」を超えた作品に高めるものだと思っている。」と書いていることが参考になる。
こうした龍太における句風の変化をもたらしたのは故郷との和解であり、加えて、波郷など人間探求派と称される人々の作品と自らの志向の違いについての認識の深まりだったと思われる。
鶏鳴に追はれて消える春の星(昭和45年)
この句は、鶏鳴と徐々に消えてゆく星の光りとの取り合せが、春の明け方のやわらかな情感を余さず表現しているのだが、作者自身は春暁の情景の中に溶け込んでいて、作品の鑑賞に当たって、作者の個人的な境涯にことさら触れる必要のない普遍的な句柄の作である。行きずりの旅行者ではなく、土着者の目が捉えた故郷の情景である。
沢蟹の寒暮を歩きゐる故郷(昭和46年)
水澄みて四方に関ある甲斐の国(昭和49年)
梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬(昭和52年)
など「故郷」、「甲斐」の語を用いた作には、作者の固有性の残滓があるものの、それはごく微かなものだろう。
掲出の第一句で詠われているのは、境川村小黒坂の寒暮の一情景であるが、読者は、この句から、作者が故郷に対して感じている侘しさ、ともに故郷に生きている沢蟹に対して感じている共感やいとおしみなど、より普遍的な内容を読み取ることになる。
第二句、第三句では、作者は、身辺のささやかな景物―谷川の水や漬梅―を通して、自らが定住土着している「甲斐の国」を褒め称えている。しかし、作者自身は「甲斐」の住人の一人としてその地に溶け込んでいる。
一月の川一月の谷の中(昭和44年)
炎天のかすみをのぼる山の鳥(昭和45年)
短日やこころ澄まねば山澄まず(昭和49年)
第一句では、「一月の谷」の中を流れ続ける「一月の川」以外の景物は何も登場せず、独り心の露わな表出もない。しかし、表現を削りに削ったところに現出したこのひと気のない白々とした原風景には、作者の孤心が重ねられているようだ。
第二句は、「炎天」の「かすみ」を捉え得た作者の自然観照の確かさを味わいたい作である。この2つの語を結び付けたとき、作品はほぼ完成していたと言っていい。「炎天」を衝いて上っていくこの「山の鳥」は、実景というよりも、作者の想念の産物であるように思われる。ただ一羽炎天を上っていくこの鳥の姿には、作者の孤心が重ねられている。
第三句は、作者のこころの澄みと山の澄みとの密接な関わりを詠ったものであり、作者と自然との交感がモチーフになっている。自らの内面と故山との関わりを見詰め続けている作者の孤心が感じられる作品だ。
またもとのおのれにもどり夕焼中(平成4年)
この句は、「雲母」終刊号に発表された諸作の中の一句であり、この句にも孤心への傾斜がある。仮の世を生きてきて「もとのおのれ」に戻った作者の周囲には、幼少の頃から馴染んだ村の情景が広がり、同郷の人々との交友もあって、龍太の孤心を和ませたのだと思う。
この句を芭蕉及び蛇笏の次の作と比べてみたい。
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
誰彼もあらず一天自尊の秋 蛇笏
第一句は、自らの人生の終幕を見通した上での晩年の孤独の意識から生まれた作である。この一本の道のほかに自分の行く道はないという感慨に、「秋の暮」の寂寥が重ねられている。一方、龍太の「またもとの」の作には、俳句を離れても己の居場所をもつ土着者としての心の余裕がある。第二句のひと気の無い秋天の澄みには、他の何物をも拒む厳しさと静かさがある。一方、前掲の龍太句においては、作者の孤心を夕焼けの温もりが包んでいる。