春になって寒気が緩んでくると、夜、見上げる星も潤んで柔らかな光を帯びてくる。地上の我々も星も、同じような夜気の湿りの中にいるような錯覚に囚われる。
掲句は、3月中旬に秩父に小旅行したときの作品。山女(やまめ)と雨子(アマゴ)は、体の横の鮮やかな朱点の有無で区別するそうだが、その夜味わったのは雨子骨酒だった。暮れるにつれて、川を隔てた山の端に星が一つ、また一つと殖えていった。令和5年作。
春になって寒気が緩んでくると、夜、見上げる星も潤んで柔らかな光を帯びてくる。地上の我々も星も、同じような夜気の湿りの中にいるような錯覚に囚われる。
掲句は、3月中旬に秩父に小旅行したときの作品。山女(やまめ)と雨子(アマゴ)は、体の横の鮮やかな朱点の有無で区別するそうだが、その夜味わったのは雨子骨酒だった。暮れるにつれて、川を隔てた山の端に星が一つ、また一つと殖えていった。令和5年作。
「入学試験」「受験」は仲春の季語になっているが、かつて自ら受験を経験し、二人の子の受験を見守ってきた生活者としての実感からいえば、大学入試共通テストが行われる1月中旬の最も寒さの厳しい時期に受験シーズンに突入する感じだ。その後も受験シーズンは続き、徐々に春めいてくるのだけれど・・・
掲句は、通勤途中目にした受験生の姿が契機になってできた作品。寒さの厳しい駅のホームで、厚手のマフラーをぐるぐると首に巻き付け、手袋をしっかり嵌めた、一目でそれと分かる受験生の姿が印象的だった。一人一人の受験生の背後には、彼らを見守り、応援しているであろう肉親を始めとする多くの人たちがいることを想像した。掲句から、まだ少年少女の面影の残る受験生の姿を思い浮かべていただければ幸いだ。平成19年作。『春霙』所収。
「花吹雪」は、惜し気もなく風に散る桜の花びらを吹雪(ふぶき)に譬えた言葉で、「落花」の傍題。しきりに散っている桜は、その時、一切の執着を捨て去った放下の状態にあるようにも思える。
掲句は、花吹雪の行方を目で追っていてできた作品。落花の多くは水に落ちたり幹に当たったりして途中で飛翔を止めてしまうのだが、一部の落花は、どこまでも風に吹かれて飛んで行くのだった。ふと、この世とあの世の境を越えて吹かれていくひとひらの落花を想像した。平成18年作。『春霙』所収。
「初蝶」は、春になって初めて見掛ける蝶のこと。大抵は、不意に見掛けて、たちまち見失ってしまう。もうそんな時季になったのかと、改めて春になったことを実感する。よく晴れて、日差しが惜し気もなく降り注ぐ地面や草の上などで見掛けることが多い気がする。
川越の喜多院の五百羅漢は、実際には全部で538体あるという。笑っている羅漢、怒っている羅漢、耳に口を寄せて何か囁いている羅漢、相酌の羅漢などさまざまな羅漢がいる。その中に見掛けた、腕に顔を埋めて哭いている羅漢のことを、陽春の日差しの中でふと思い起こした。この世を拒むかのように、顔を伏せた羅漢は、一体何を嘆いているのだろう。平成20年作。『春霙』より。
「野焼」は、手元の歳時記に初春の季語として掲載されているが、「葭焼」(よしやき)はその傍題として扱っていいだろう。土地を肥やし害虫を駆除して、新しく生えてくる葭などの草の生育を促す効果があるという。
掲句は、渡良瀬遊水地に葭焼きを見に行ったときの作品。火入が行われると、野を渡ってくる風に、高々と火が立ち上がり、また、吹きちぎれた。火入前には晴れわたっていた空が暗くなるほど、葭焼きの煙が立ち込め、身体や衣服に煙のにおいが沁み付いた。焼畑農法の昔から続いている人と自然の関わりを思い浮かべた。平成21年作。『春霙』より。