「秋思」は秋になって、心に何かを感じたり思ったりをすること。春の「春愁」に対して、秋のもの思いが「秋思」。湿り気の少ない漠としたもの思いである。
掲句はひとすじの小さな流れに沿って櫟林の中を歩いたときの作品。傍らの流れや溜まった木の葉に目を遣りながら足を運ぶ。林を抜け出た後、その流れは柳瀬川に合流した。散歩の後になって、「秋思」という季語がその時の私の気持ちに相応しいことに思い至った。特定の愁いや悩みではなく、自らの齢や来し方行く末を巡るとりとめのない思いだった。「郭公」2025年1月号。
「秋思」は秋になって、心に何かを感じたり思ったりをすること。春の「春愁」に対して、秋のもの思いが「秋思」。湿り気の少ない漠としたもの思いである。
掲句はひとすじの小さな流れに沿って櫟林の中を歩いたときの作品。傍らの流れや溜まった木の葉に目を遣りながら足を運ぶ。林を抜け出た後、その流れは柳瀬川に合流した。散歩の後になって、「秋思」という季語がその時の私の気持ちに相応しいことに思い至った。特定の愁いや悩みではなく、自らの齢や来し方行く末を巡るとりとめのない思いだった。「郭公」2025年1月号。
「白露(はくろ)」は二十四節気の一つで、太陽暦では9月8日頃。この頃になると秋の気配が濃くなり、露けくなってくる。
掲句は夜が明けたばかりの空を仰いで、翔けている鳥の影に目を凝らしての作。夏の暑さからようやく解放されようとする頃の朝の空は清々しい。思わず深呼吸したくなるような空を高々と飛ぶのは、塒の木を発った鷺だろうか、鴉だろうか。「もの」と対象を明示しないことで、余情のふくらみが得られていれば幸いだ。令和6年作。
鶏頭はヒユ科の一年草。夏から秋にかけて直立した茎の上部に鶏冠状の肉厚の花をつける。妖艶な存在感がある。
掲句は鶏頭の人臭さを詠んだ作品。鶏頭は秋が深まるにつれて膨張し、妖しさが増してくる。その妖しさには、どこか人の面影がある。畑の隅に日々立ち続ける鶏頭も、人と同じようにものを思っているのかも知れない。平成17年作。『春霙』所収。
「尉鶲」はスズメ目ヒタキ科の鳥。晩秋にシベリアから渡来して日本で越冬する。低地から山地の山林や農耕地、市街地の公園や庭等広範囲の環境で生息する。翼に白い紋があり、頭を上下しながら尾を振って鳴く。人懐っこく、人家の庭先にも姿を見せる。「鶲」の傍題。
掲句は、朝晩「尉鶲」を見かける頃の透き通るような空の澄みようを句にしたもの。秋が深まる頃、再び「尉鶲」の親しみ深い鳴き声が聞かれるようになった。夜通し風が吹いた明け方は、近くよりも遠景の方がくっきりと目に映じる。遥か彼方まで「尉鶲」の声を遮るものは何もない。平成14年作。『河岸段丘』所収。
晩秋の頃に降ってはすぐに止む雨のこと。華やかな紅葉を散らしてしまう雨なのでどこか侘しい。近づいてくる冬の気配を感じさせる。
掲句は通りすがりの花屋の光景。花屋の店先には、仕入れの箱詰めの花卉(かき)がつぎつぎ届く。晩秋の頃だったので、菊、吾亦紅、竜胆などが箱から取り出されて、店先に並べられていく。空箱がどんどん増えて積み上がる。秋時雨の一抹の侘しさと晩秋の頃の花卉の華やぎには、どこか照応するものがある。平成18年作。『春霙』所収。