「椿」は常緑の肉厚の葉の中に真紅の花を咲かせる。花びらが散るのではなく、花ひとつが丸ごと落ちるので落椿といわれる。
掲句は眼前の咲き盛る椿を詠んだもの。百とも千ともつかない紅椿が辺りの静寂を破らぬまま咲き盛っていた。時間が来れば、自ずからぽたりぽたりと地に落ちていく椿。その椿の咲いている時間が、器に満ちる水のように、「満ちてくるもの」と感じられた。椿の命の充実感が一刻一刻を満たしていた。平成19年作。『春霙』所収。
「椿」は常緑の肉厚の葉の中に真紅の花を咲かせる。花びらが散るのではなく、花ひとつが丸ごと落ちるので落椿といわれる。
掲句は眼前の咲き盛る椿を詠んだもの。百とも千ともつかない紅椿が辺りの静寂を破らぬまま咲き盛っていた。時間が来れば、自ずからぽたりぽたりと地に落ちていく椿。その椿の咲いている時間が、器に満ちる水のように、「満ちてくるもの」と感じられた。椿の命の充実感が一刻一刻を満たしていた。平成19年作。『春霙』所収。
「春陰」は春の曇りがちな空模様のこと。「花曇り」という言葉もあるが、「春陰」は桜の咲く頃に限らない。どこか心に翳を落とすような空合いだ。
掲句は銀座のとある画廊の扉の重い感触を詠んだもの。人体の形のドアノブを押すと、そこは画廊特有の昼の静寂。絨毯を踏んで絵の前に立つと、都会の真ん中にいることを忘れるほどだが、「春陰」の翳りが、絶えず私の心に付きまとっていた。平成22年作。
「花」は桜のことだが、植物としての桜よりも、心に映るその華やかな姿に重心がある。日本の春の美しさを代表する。「花月夜(はなづきよ)」は桜の花が咲いた美しい月夜のこと。
掲句は近くの川沿いの桜を詠んだもの。ほとんどが染井吉野で、ほぼ同時期に植えられたと見えて、ひと頃より梢の蕾の数が減り、見栄えがしなくなったのは致し方ないことだが、それでも花の盛りの頃夜昼となく小橋に佇むと、その華やぎや豊かさを満喫できる。誰にも乱されない贅沢な時間だ。「一朶(いちだ)」「万朶(ばんだ)」と対比することによって、咲き盛る花のボリュームを表現したかった。平成28年作。
「料峭(りょうしょう)」は春の風がまだ肌を刺すように冷たく感じられるさまをいい、春寒とほぼ同義だが、より寒さの感覚が強く表に出ている印象がある。
掲句は湘南の江ノ島を訪れたときの作品。改めて調べてみると、令和5年の人口は292人。昼間参道等で見掛ける人々の多くは観光客だ。島民はひっそりと沿岸漁業に従事したり民宿を営んだりしているのだろう。観光客の溢れる道は、そこに住む人の生活道路でもある。春になったとはいえ、その日は寒々とした風が樟などの常磐木を鳴らしていた。実際には「一本の道で足る」といえるほど単純な町並みではないのだが、脇道や側道・間道は省略して、岩屋まで延びる参道と参道沿いの人々の暮らしに焦点を絞った。平成9年作。『河岸段丘』所収。
啓蟄(けいちつ)は3月5、6日頃。冬眠していた蛇や蛙などが暖かさに誘われて穴から出てくるころとされる。
掲句は私の膝に来て座った我が子のまとう陽の匂いに、春の到来を感じての一句。個人的には、今は巣立ってしまった我が子の幼かった頃の記憶がよみがえる作品でもある。一日外遊びをして帰ってきた子に、燦燦と降り注いでいた春の日差しの匂いがしたというのは、当時の私にとって新鮮な驚きだった。虫たちもその暖かな日差しに誘われて、穴から顔を出していたのだろう。平成10年作。『河岸段丘』所収。