啓蟄(けいちつ)は3月5、6日頃。冬眠していた蛇や蛙などが暖かさに誘われて穴から出てくるころとされる。
掲句は私の膝に来て座った我が子のまとう陽の匂いに、春の到来を感じての一句。個人的には、今は巣立ってしまった我が子の幼かった頃の記憶がよみがえる作品でもある。一日外遊びをして帰ってきた子に、燦燦と降り注いでいた春の日差しの匂いがしたというのは、当時の私にとって新鮮な驚きだった。虫たちもその暖かな日差しに誘われて、穴から顔を出していたのだろう。平成10年作。『河岸段丘』所収。
啓蟄(けいちつ)は3月5、6日頃。冬眠していた蛇や蛙などが暖かさに誘われて穴から出てくるころとされる。
掲句は私の膝に来て座った我が子のまとう陽の匂いに、春の到来を感じての一句。個人的には、今は巣立ってしまった我が子の幼かった頃の記憶がよみがえる作品でもある。一日外遊びをして帰ってきた子に、燦燦と降り注いでいた春の日差しの匂いがしたというのは、当時の私にとって新鮮な驚きだった。虫たちもその暖かな日差しに誘われて、穴から顔を出していたのだろう。平成10年作。『河岸段丘』所収。
旧暦2月15日は釈迦が沙羅双樹の下に入滅した日とされ、寺院では新暦の2月15日又は3月15日に涅槃会(ねはんえ)が執り行われる。当日は涅槃図を掲げて法要を営む。涅槃図は、沙羅双樹のもとに横臥した釈迦のまわりを、嘆き悲しむ弟子や動物たちが取り囲んだ図。
掲句は眼前の涅槃図を眺めながら、境内にいた鶯が、笹鳴きのまま涅槃図中の動物たちの中に加わることを想像しての作。まだ春の寒さの残る時季で、鶯はチャッ、チャッという冬の地鳴き(笹鳴き)のままだった。「笹鳴のまま」の措辞に、薄ら寒いその頃の季節感と、若干の諧謔味を効かせたつもりである。平成17年作。『春霙』所収。
「龍太忌」は2月25日。飯田龍太は平成19年のこの日逝去した。平成4年に「雲母」を終刊してから十数年経っていた。山住みの人にとって、本格的な春の到来が待たれる時季に当たる。
龍太忌といえばまだ春の寒さが残る頃で、早朝の川や池には薄氷(うすらい)が張り、昼の陽光に照らされてゆっくりと解けてゆく。その日は、池の薄氷越しにうすうすと魚の影が見えた。冬の間静まっていた水中のコイやフナなどの魚たちも、活動を始めようとする頃だ。釣り好きだった龍太の面影がその魚影と重なった。平成21年作。『春霙』所収。
余寒は寒が明けてからもなお残る寒さのこと。目に見るもの、耳に聞くものに春の兆しはあるものの、依然として骨身に応えるような寒さが続く。
掲句には「ウクライナ侵攻一年」と前書きを付した。戦争の悲惨さについては連日マスコミ報道されているものの、何もできずに自らの生活にかまけて日々が過ぎていく。戦争勃発から一年が経ち、寒々とした夜空の星々に目をさまよわす。無力な自らを省みる思いもあった。令和5年作。
「東風(こち)」は、春になって西高東低の気圧配置が崩れて、太平洋から大陸の方へと吹く風。ひと口に「東風」といっても、春特有の強風であることもあれば、柔らかい感触の風が吹くこともある。
掲句の実景は樹齢何年とも知れない梅の老木だが、梅に限ることもないだろう。苔むしたごつごつの老木の幹から、緑色の瑞枝(みずえ:瑞々しい若枝)が伸びているのだ。年老いた木に潜んでいる生命力に驚かされた。折から、湿り気を含んだ「東風」が荒々しく木々を吹き抜けていた。いよいよ芽吹きの季節が到来する。令和2年作。