「新樹」は若葉におおわれる初夏の木立。みずみずしい新樹の放つ光が「新樹光」。夏の到来を思わせる命のかがやきだ。
掲句は、新樹のみずみずしい光が四囲を明るくするような季節に、会議室で会議が進められている場面。「眼鏡外して本題に」というのは齢を重ねた人の日常の自然な動作。それをさり気なく詠み込んで味わいのある一句になった。窓外の「新樹光」と室内の鹿爪らしい会議の対照が鮮やかだ。『俳句四季』2025年5月号。
「新樹」は若葉におおわれる初夏の木立。みずみずしい新樹の放つ光が「新樹光」。夏の到来を思わせる命のかがやきだ。
掲句は、新樹のみずみずしい光が四囲を明るくするような季節に、会議室で会議が進められている場面。「眼鏡外して本題に」というのは齢を重ねた人の日常の自然な動作。それをさり気なく詠み込んで味わいのある一句になった。窓外の「新樹光」と室内の鹿爪らしい会議の対照が鮮やかだ。『俳句四季』2025年5月号。
「下萌(したもえ)」は早春の頃、大地から草の芽が萌え出ること。待ちに待った春がようやく訪れる。
掲句から、春先、園庭に出て戯れている保育士と園児たちの姿を思い浮かべたい。冬の間は園舎にこもりがちだった園児たちも、暖かい春の日差しが降り注ぐ日は、保育士と一緒に外遊びをしているのだ。この句では、そうした背景の一切を省略して、保育士の大きなポケットに焦点を絞った。一読自ずから目に浮かんでくる四囲の情景は、春が来た喜びに満ちている。『俳句四季』2025年5月号。
「虹」は雨の後、太陽と反対側の空に現れるアーチ状の七色の帯。夏の驟雨の後などに現れることが多いので夏の季語。虹がアーチの片側だけ見えるのが「片虹」。
掲句は世界の各地で起きている戦争を詠んだ作品。といっても、特定のどこかの戦火の地を念頭にしたものではないだろう。今、作者の眼前にあるのは片虹。それを「片足で立ちたる虹」と表現した。その措辞は、自ずから、戦禍で片足を失った傷病兵の姿を連想させる。眼前の片虹から「戦場」へのイメージの飛躍が実感をもって読者に伝わるのは、その措辞の効果だろう。戦争に対して詩は無力だが、それでも詠まずにはいられないとの思いが、掲句の「よ」の詠嘆に表れている。『俳壇』2025年5月号。
「雪掻(ゆきかき)」はシャベルやこすきなどを使って積もった雪を掻きのけること。今は除雪車などで広い範囲の除雪が出来るようになったが、路地や庭先などの「雪掻」の作業は雪国では日常的に行われている。
掲句は冬季の「雪掻」を詠んだ作品。シャベルが雪の底の土にとどいたとき、さっと懐かしい土の匂いがしたという。それは雪に埋もれて暮らす人々にとって、春がそこまで来ていることを思わせる匂いだろう。雪国人の生活実感が過不足なく詠み込まれている。『俳壇』2025年5月号。
「新樹」は若葉におおわれる初夏の木立をいう。「新樹光」は「新樹」の若葉の照り返しのこと。周囲はみずみずしい明るさに満ちる。
掲句は初夏の木々の光が、木々を訪れた鳥の姿やその声を追っていると詠む。鳥たちは木々を塒にしたり若芽を食べに訪れたりして、木々と関わり深く生活しているが、木々の方でも、そうした鳥たちに慈愛の眼差しを注いでいるのかも知れない。この句は「新樹光」を擬人化しているが、作者が鳥影やその声を追っているとも読める。どちらが正しいというのではない。どちらにも読める曖昧さが俳句表現の醍醐味。『俳壇』2025年5月号。