「烏瓜(からすうり}はウリ科の多年草で、山野に自生する。夏に白いレースのような 花を咲かせた後、秋に卵形の実をつける。晩秋の頃赤や黄に色づく。
掲句は、人の手から渡された「からす瓜」に日の匂いがしたという。内容は至って単明だが、「からす瓜」の日の匂いから、好天の一日の郊外や山野での行楽の様が目に浮かんでくる。秋深む頃は、「からす瓜」に限らずアケビや茸、山葡萄など、目や味覚を楽しませるものが多い。『俳壇』2025年2月号。
「烏瓜(からすうり}はウリ科の多年草で、山野に自生する。夏に白いレースのような 花を咲かせた後、秋に卵形の実をつける。晩秋の頃赤や黄に色づく。
掲句は、人の手から渡された「からす瓜」に日の匂いがしたという。内容は至って単明だが、「からす瓜」の日の匂いから、好天の一日の郊外や山野での行楽の様が目に浮かんでくる。秋深む頃は、「からす瓜」に限らずアケビや茸、山葡萄など、目や味覚を楽しませるものが多い。『俳壇』2025年2月号。
「冬泉」には思索を誘うような独特の静けさがある。単に「泉」といえばその清涼感から夏の季語になっているが、冬の泉の澄み切った様には夏の泉にはない冴え冴えとしたものが感じられる。
掲句は澄み切った「冬泉」を見ていて眼の澄を覚えたとの句意。「澄みゆくまで佇てり」との措辞には、ゆったりとした時間の経過が感じられる。何事にも煩わされない、独り心の至福の時間である。『俳壇』2025年2月号。
「着ぶくれ」は重ね着をしたり、分厚い衣服をはおったりして、体が膨れて見えること。颯爽とした姿とは正反対の、鈍重な印象の自他の姿を自嘲や慰安を込めて詠むことが多い。
掲句は、不合理なことが多いこの世にあって、苦笑しながら世の不合理を受け入れ、順応している自らを省みての作品。袋を収納するため、或いは持ち運ぶために別の袋が要るというのも、何とも遣り切れないことだが、〈まあいいか〉と諦めながらレジに並んでその袋を買っているのだ。「着ぶくれ」という季語が句の味わいを引き出している。『文藝春秋』2025年2月号。
「着ぶくれ」は重ね着をしたり、分厚い外套をはおったりして体が膨れて見えること。着ぶくれると動作が鈍くゆっくりになる印象がある。
掲句は平和な世が続いている日本にいて、戦地に思いを馳せた作品。ウクライナやガザ地区など世界では戦争・紛争が絶えず生起している。戦地に立ち会っていない人間にとって、気には懸かるが句に詠むことは難しい素材だ。掲句は、絶えず命や生活を脅かされる戦地と現代日本の「着ぶくれて撃たるることもなき街」を対比して、戦争に対する作者の思いを滲ませた。「着ぶくれ」という平和ボケの日本に相応しい季語がよく効いている。『俳句』2025年1月号。
昔からの暦には伊勢神宮の伊勢暦、江戸の江戸暦など各地に特色あるものがあり、最近では企業や各種団体が作る美しい絵や趣向を凝らしたカレンダーなどがある。「新暦」「初暦」はこれらを新年に使い始めること。新しい年への期待感が膨らむ。
掲句は、新年に使い始める「新暦」を「命減らす」と表現し、新年の期待感や華やぎよりも、残生(ざんせい)に対する深沈たる重いに誘う作品だ。この句の「新暦」はモダンなカレンダーよりも、一枚一枚剝いでゆく日めくりの暦が相応しい。一日ごとに一枚ずつ剝いでゆくので暦は次第に薄くなっていく。「命減らす」はある程度の老境に達した人のもつ、暦に対する率直な感慨だろう。暦が薄くなっていくとともに、自らの残りの命の日数も減っていくのだ。そこには、今生の一日一日を愛惜する思いも滲む。『俳句界』2025年1月号。