「蓬摘」は「摘草」の傍題。夏には繁茂して猛々しい姿になる蓬だが、春、土手や田圃の畔などに萌え出た姿は可憐だ。蓬を摘んでいた指先には、摘んだ後も香しい匂いが残る。春の大地の命が凝縮したような匂いだ。餅に搗き込むと、空よりも鮮やかな真っ青な草餅ができあがる。
掲句は、「蓬摘」をしていて、指先が勝手に動いてしまう忘我の状態を句にした。自然に溶け込んで時の経つのも忘れる至福の時間がそこにはある。『俳壇』2023年4月号より。
「蓬摘」は「摘草」の傍題。夏には繁茂して猛々しい姿になる蓬だが、春、土手や田圃の畔などに萌え出た姿は可憐だ。蓬を摘んでいた指先には、摘んだ後も香しい匂いが残る。春の大地の命が凝縮したような匂いだ。餅に搗き込むと、空よりも鮮やかな真っ青な草餅ができあがる。
掲句は、「蓬摘」をしていて、指先が勝手に動いてしまう忘我の状態を句にした。自然に溶け込んで時の経つのも忘れる至福の時間がそこにはある。『俳壇』2023年4月号より。
「紅枝垂れ(べにしだれ)」はエドヒガンの変種で、濃い紅色の花を大きな樹から滝が流れ落ちるように咲かせる。
掲句の「寂庵(じゃくあん)」は、2021年11月に逝去した瀬戸内寂聴が生前京都嵯峨野に開いたお寺であり自宅も兼ねた曼荼羅山寂庵のこと。かつて寂聴に親近した作者の追慕の思いが「天にふぶける」の措辞から感じられてくる。「天」は単なる空ではない。それは亡き寂聴の魂が棲む天上界である。今しも「紅しだれ」が吹雪いて、寂聴の魂を包み込むかのように、しきりに花びらを散らしているのだ。『俳壇』2023年4月号より。
なお、黒田杏子氏は、2023年3月13日に逝去された。
「花見」は、桜の花を愛でながら、春の訪れを寿ぐ古くからの日本のならわし。独りで花を眺めることもあるが、多くの人が飲食をともにしながら花見を楽しむことも多い。夜の花見は「夜桜(見物)」といい、季語として別に立てられている。
掲句は、桜どきに晴れわたった空を仰いでの幻想の作品。春がたけなわになると、青空といっても、空には絶えず薄雲がかかり、濃淡をなしている。作者は雲が白砂のように吹き溜まっているところを、「空の渚」といった。渚に沿って作者を乗せた「花見舟」がすすんでゆく。作者が薫陶を受けた故大岡信をはじめ、今は天上に棲む亡き人の誰彼にも、舟の上では相見(まみ)えることができるのだろう。『俳壇』4月号より。
「海市(かいし)」は蜃気楼のこと。昔の人々は、蜃気楼現象を、蜃(大はまぐり)が気を吐いて楼閣を描くと考えたという。科学的には、気温の相違により、地上や海面上の大気の密度が一定ではないときに、光の異常な屈折が原因で、遠くの景色が見えたり、船が逆さまに見えたりするなど、物が実際とは異なって見える現象。
遺骨収集といえば、先の大戦で海外で戦没した多くの日本人の遺骨が帰らないままであり、関係者による遺骨収集が今なお行われている。掲句で、作者が拾いに赴こうとする「遺骨」も、当時の戦没者の遺骨のように思えるが、そう限定して読む必要はないだろう。もしかしたら、作者自身の遺骨を、自ら拾いに赴こうとしているのかも知れない。「海市」という季語のもつ幻想性は、読者の自由な読みを許容しているのだ。『文芸春秋』2023年4月号。
春先に咲く白梅の白さは、厳密にいえば純白というのではないが、この世の汚れと無縁であるかのようなその眩い白さには、年々心を洗われる思いがする。長い廊下の先に明るい窓があるように、長い冬を経て、春がやってくる。梅は、人に、真っ先に春の到来を告げる景物の一つ。
掲句は、作者の父廣瀬直人の逝去(平成30年3月1日)に際しての作品。句集『里山』には、「父死す 五句」との前書きが付された諸作の冒頭に収められている。長い闘病生活を経て、亡き父の魂は、生前愛でた白梅のもとに、また、日々暮らした大屋根の下に帰ってきた。「帰り来し」との措辞に、〈おかえりなさい〉と亡き父を労う万感の思いがこもる。平成30年作。