「桜」は、春咲く花の代表というだけでなく、四季を通じて、日本の花を代表する言わば「花の中の花」。野生種,人工種など、その種類も多い。散り急ぐ風情もいいが、開花し始める頃の初々しさも格別だ。爛漫と咲き盛る日中の桜だけでなく、朝桜、夕桜、夜桜も、それぞれ風情がある。桜が咲く時季になると、公園や庭、山野などに、こんなにも桜の木があったのかと、改めて驚かされる。桜が咲いている間は、戸外を歩いていても桜に目を奪われてしまい、桜の時季が過ぎて、土手草や木々の芽が日々緑を濃くしていたことに気づくことになる。

「桜」は、春咲く花の代表というだけでなく、四季を通じて、日本の花を代表する言わば「花の中の花」。野生種,人工種など、その種類も多い。散り急ぐ風情もいいが、開花し始める頃の初々しさも格別だ。爛漫と咲き盛る日中の桜だけでなく、朝桜、夕桜、夜桜も、それぞれ風情がある。桜が咲く時季になると、公園や庭、山野などに、こんなにも桜の木があったのかと、改めて驚かされる。桜が咲いている間は、戸外を歩いていても桜に目を奪われてしまい、桜の時季が過ぎて、土手草や木々の芽が日々緑を濃くしていたことに気づくことになる。

春先に咲く白梅の白さは、厳密にいえば純白というのではないが、この世の汚れと無縁であるかのようなその眩い白さには、年々心を洗われる思いがする。長い廊下の先に明るい窓があるように、長い冬を経て、春がやってくる。梅は、人に、真っ先に春の到来を告げる景物の一つ。
掲句は、作者の父廣瀬直人の逝去(平成30年3月1日)に際しての作品。句集『里山』には、「父死す 五句」との前書きが付された諸作の冒頭に収められている。長い闘病生活を経て、亡き父の魂は、生前愛でた白梅のもとに、また、日々暮らした大屋根の下に帰ってきた。「帰り来し」との措辞に、〈おかえりなさい〉と亡き父を労う万感の思いがこもる。平成30年作。
「霾」(つちふる)は、春になって、大陸から海を越えて飛んでくる黄砂のことをいう。空は黄色くかすみ、大気は埃っぽく、関東近辺では、強風が畑などから巻き上げる土埃も入り交じって、厭な一日となる。
掲句は、神田神保町に職場があった頃、昼休みに辺りを歩き回っていてできた作品。昌平橋近くの中央線の高架を潜ったとき、町名が「神田淡路町」から「外神田」に変わったことに興味を感じた。町中を歩きながらも、黄ばんで濁った東京の空が、意識のどこかにあったのだろう。平成11年作。
「忘れ霜」は、春たけなわの頃降る霜のこと。桜の咲く時季を過ぎても、移動性高気圧にともなう夜間の放射冷却などで気温が急速に下がり、畑などに一面霜が降りることがある。私の近辺の茶園などでは、萌え出たばかりの茶の芽が霜にやられるのを恐れて、未明から除霜ファンを回す。古来「八十八夜の別れ霜」といわれ、5月のゴールデンウィークを過ぎる頃には、農家の人たちも降霜の心配から解放されることになる。「別れ霜」「晩霜(ばんそう)」「霜の果」などともいう。

桜は品種によって、花芽と葉芽のほぐれる順番が異なる。最もポピュラーなソメイヨシノは、花が咲き終わった後葉芽が一気にほぐれてゆく。山桜は、花芽と葉芽とがほぼ同時にうごきだす。
掲句から思い浮かぶのは、花芽を沢山つけたソメイヨシノの老木だ。ふとぶとと年数を経たソメイヨシノの老木が、折りからの雨を含んで黒々と濡れて立っている。木末には夥しい蕾が、咲く寸前の瑞々しい紅色を零さんばかり。「芯まで濡れて」との措辞は、表面的な写生では至り得ない作者の深い観照の賜だ。写生を超えたところで、老木の桜の命の在りようを掴んでいる。句集『深紅』所収。2019年作。