中央アジア原産のヒガンバナ科の多年草。明治初めに日本に渡来。地中に肥大して球形となった鱗茎をつける。秋播き型(秋播き夏採り)と春播き型(春播き秋採り)に大きく分けられるが、夏の収穫が最も多い。西洋料理、肉料理の普及により、一般の家庭に大いに利用されている。

中央アジア原産のヒガンバナ科の多年草。明治初めに日本に渡来。地中に肥大して球形となった鱗茎をつける。秋播き型(秋播き夏採り)と春播き型(春播き秋採り)に大きく分けられるが、夏の収穫が最も多い。西洋料理、肉料理の普及により、一般の家庭に大いに利用されている。

龍太には、虚子を詠んだ句が幾つかある。
龍の玉虚子につめたき眼あり(昭和57年)
句集『山の影』所収。この句からは、作者の虚子に対する、少し距離を置いた微妙な心情が感じ取れる。俳句の先達としての虚子、特にその句業には尊敬の念を抱きながらも、その生涯や作品の印象から窺えるその人となりを、「つめたき眼」に焦点を絞って冷静に言い止めている。
大寒の埃のごとく人死ぬる 虚子
去年今年つらぬく棒のごときもの 〃
掲出の第一句では、人の死を「埃」に譬えており、読者にどう受け止められようとも、ある人の死から受けた自らの印象を偽らずに表現しようとする虚子の姿勢がみえる。人の死に対するこのような情を絶った受け止め方には、正岡子規の命終に際しての、
子規逝くや十七日の月明に 虚子
の作と共通の虚子の特徴が表れている。
第二句について、龍太は、「虚子一代の代表句であると同時に、俳句史の中でも屹立した名句のひとつ」と賛辞を惜しまない。この句においては他の一切は捨象されて、去年今年を貫く時間の流れが、のっぺりとした「棒のごときもの」として眼前に差し出される。当時老境に達していた虚子が、これまで経て来た自らの歳月というものをどのように捉えていたかが窺える。その省略を極めた把握、表現の大胆さは、前掲の龍太句の「眼」のつめたい虚子像につながるものである。
龍の玉升さんと呼ぶ虚子のこゑ(昭和59年)
句集『山の影』所収。明治における子規、虚子等の交友の在りようが彷彿する作である。この句は事実や経験から離れた虚構の作と言っていいが、後述するように、明治時代の子規、虚子らの交わりに対する作者の共感が根底にある作品である。
子規の本名は「常規(つねのり)」だが、幼い頃伊予の郷里では「処之助(ところのすけ)」、「升(のぼる)」などの幼名で呼ばれ、上京してからも虚子らは子規のことを幼名のまま、「升(のぼ)さん」と呼んでいた。子規、虚子、碧梧桐らは、お互いに「升さん」、「清さん」などと幼名で呼び合う仲だった。
俳句を文学の一分野として革新、蘇生しようとした子規と、子規の目指した方向に修正を加えながらもその業績を引き継いだ虚子。この二人により明治以降の俳句の方向がおおむね定まったことを思うと、龍太が子規と虚子の当時の交友や関わりに関心を持つのは当然だが、虚子の「つめたい眼」を詠んだ前掲の作とは対照的に、この句における子規、虚子らの交友に注がれる龍太の眼差しは好意的であり、羨望の念すら混じっているようだ。
そして、両句を合わせ読むと、龍太が抱いていた虚子像の全体が浮かび上がってくる。
バラ科ヤマブキ属の落葉低木。渓流沿いなどのやや湿った山地に自生するほか、観賞用としても植えられる。晩春の頃、若葉とともに楚々とした黄色い五弁花を咲かせる。八重山吹は園芸品種。白山吹は山吹とは別属で、四弁の白い花を咲かせる。


俳人龍太の形成に影響を与えた人を3人挙げよと言われたら、芭蕉、虚子、蛇笏を挙げることに、大方の異論は無いだろう。
本稿では、まず、龍太が芭蕉をどう読んだかについてみてみたい。
龍太には、『芭蕉のことなどー山本健吉』、『ふたりの場合』など芭蕉を論じた幾つかのエッセイがある。
龍太がこれらのエッセイの中で述べている芭蕉像のポイントは、旅に明け暮れた芭蕉の胸中には、故郷伊賀に対する根深い望郷の思いがあったこと、そして、芭蕉における風土と漂泊が表裏皮膜のものだったということである。このような芭蕉理解の契機になったのは、『奥の細道』に収められている
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
のどこか切迫した気息に、作者の胸奥のつぶやきを聞き止めたことにあるという。
『奥の細道』の越後路の段には、「・・この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず。」とあって、次の二句が並べられている。
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉 荒海や佐渡によこたふ天河 〃
「文月」の句が求心的な句柄であるのに対して、「荒海」の句は遠心的であり、前者は胸中の密かな呟きのような句であるのに対して、後者は大景と対峙しての気魄の一句である。『奥の細道』に句柄の対照的な二句を並置したところには、単調さを避けようとした芭蕉の構成的な意図があるだろう。また、この二句は、芭蕉の句の振り幅の大きさを示す一例でもある。
そう思って改めて両句を眺めると、いずれも上五に「や」の切れ字を用いているのだが、その効果に大きな違いがあることが分かる。「荒海や」の「や」には、対象から目を逸らさない作者の雄心が示されており、一方、「文月や」の「や」の内省的な響きには、作者の密かな思いが込められている。
正岡子規は『芭蕉雑談』の中で、「芭蕉家集は殆んど駄句の掃溜にや」と断じた後、「雄健放大の處に至りては芭蕉以前絶えて之れ無きのみならず芭蕉以後にも亦絶えて之れ無」しと絶賛し、「雄壮なる句」の例として、〈夏草やつはものどもの夢のあと 芭蕉〉などとともに、「荒海」の句を挙げている。この句を推奨する理由として、「能く實際を寫し」ていることを挙げているのもいかにも子規らしい。「雄壮なる句」に対する子規の高い評価は、子規の個人的な嗜好というだけでなく、明治という言わば遠心的な時代精神の反映でもあったろう。一方、子規は、「荒海」の句を称賛する一方で、「文月」の句についてはどこにも言及していない。この求心的な句が子規の心の琴線に触れなかったのは、明治という時代を生きて若くして亡くなった子規という人の限界だろう。
一方、龍太が芭蕉について論ずる際にしばしば取り上げているのは、「荒海」の句ではなくて、「文月」の句であることは、子規の場合と対照的だ。
「この求心的な句には、芭蕉の胸奥のつぶやきが秘められているように思われてくるのだ。長い旅程もすでに半ばをすぎ、あわせて肉体の衰えと老境を意識するとき、芭蕉の胸裡には、深く望郷のおもいが根ざし、それがこのような句の姿となって現われたのではないか、・・・」(『芭蕉のことなどー山本健吉』)
このことは、龍太にとって俳句とは何だったのか、俳句に何を求めたのかを考える上で看過できない。
前述のように、「文月」の句は龍太の芭蕉理解の契機になっているのだが、この句の表向きの意味は、今日は七夕の前夜で、旅先の町の気配や星の光にも、心なしかいつもとは違った雰囲気が感じられるとの句意であって、望郷の思いが直截に詠われている訳ではない。芭蕉における「望郷のおもい」は、この句をはじめとする『奥の細道』後半の句の声調から龍太が感じ取ったもので、芭蕉の胸裏の深いところから出ているその声調に、龍太の詩心が共鳴したのだと思う。僅か十七音で表現しなければならない俳句では、作者が口を噤んだところに、最も表現したいことが潜められている場合があるということだろう。
いずれにしても、「荒海」の句の対象と対峙する気魄に満ちた諷詠よりも、「文月」の句から聞こえてくる作者の心の深いところから発せられる呟きに、龍太は惹かれるものを感じていた。
そして、そのことと、俳句を「普段着の文芸」とするその俳句観とは、深く結びついているように思える。龍太にとって、俳句は、「木綿の肌着のようなもの。あくまで日常の用」(『解らないことなど』)であり、このような俳句観からすれば、
〈「荒海や」の句は、なるほど世評のとおり立派な句だが、芭蕉さんの肩に力が入り過ぎていてどうも親しめない。それよりも「文月や」の句のもつ肌着のような手触りが私には何とも好ましい。〉
といったところかも知れない。
芭蕉が自らの風雅について述べた「夏炉冬扇」ということについても、龍太からみれば、当時江戸で流行していた点取俳諧に対する過度の意識が感じられて、そのような世間の流行など気にせずに、自然に、在るがままに生きればいいと思ったのではないだろうか。
「詩の本質は、飾らない心が率直に言葉になることではないか。」(『龍太語る』)との述懐も、このような思いから出た言葉だろう。