「鬼灯(ほおずき)」はナス科の多年草。古くから庭や畑、鉢植えなどで栽培され、色づいた実が観賞されてきた。仲夏のころ、葉腋に黄白色の小さな合弁花を咲かせる。地味な花だが、その気配のかそけさに却って風情がある。

「鬼灯(ほおずき)」はナス科の多年草。古くから庭や畑、鉢植えなどで栽培され、色づいた実が観賞されてきた。仲夏のころ、葉腋に黄白色の小さな合弁花を咲かせる。地味な花だが、その気配のかそけさに却って風情がある。

しみじみと大樹ありけり更衣 直人
第三句集『朝の川』所収のこの句の「大樹」は、作者の日常に連れ添うように身近にある樹だろう。作者の胸裏には、
渓の樹の膚ながむれば夏来る 蛇笏
というほぼ同じ季節を詠った作品があったと思われる。前掲の句はこの蛇笏作と遠く呼応している。
「しみじみ」の措辞には、普段見慣れたその樹相に改めて見入った作者が、心の底から、その「大樹」を共に生きる対象と確認していることが窺え、そこには、自らの経てきた歳月への思いも重ねられている。
一方、蛇笏作においても、作者と「渓の樹」との関係は、作者が「渓の樹」を見ているというだけの一方的なものではない。「ながめる」には、「じっと見つめる。感情をこめて、つくづくと見る。」(大辞泉)との意があり、この樹が作者にとって単なる一方的に見る対象でないと感じられるのはこの措辞にもよる。
両句とも、日常を共にする「大樹」や「渓の樹」と壮年期の作者の内面の緊密な繋がりが感じ取れる作品である。土着するもの同志の連帯感と言うこともできる。しかし、直人作の「しみじみ」には、蛇笏作の「ながめる」より主情的な踏み込みがあり、「大樹」と作者の心情の繋がりがより直截的に表出されている。
木のまはりばかり澄みゆく年用意 直人
霜浴びて巨木放心してゐたり 〃
風筋の大樹八十八夜かな 〃
掲出の第一句は、前掲の「しみじみと」の作と同年(昭和五十六年)の作であり、この句の「木」も作者の身近にあって、明け暮れ目にしている対象だろう。年の暮の慌ただしさの中にあって、ふと目にした木のまわりの静かさが作者に強く意識された。繁忙な人の営みと年の暮を迎えた「木のまはり」の静謐さとの落差が、作者の心を捉えた。作者は、この時、いつも身辺にあって自身を静かに見守っている「木」の存在をありありと感じたのだ。
第二句、第三句は、いずれも句集『遍照』所収であり、これらの句の「巨木」、「大樹」は、作者の身近にある同一の対象かも知れない。いずれにしても、これらの樹は、作者にとって、行きずりの存在ではなく、作者とともにその地に根を張っている存在感がある。
直人俳句において、同じ素材、同じ対象が繰り返し詠われるのは、「樹」の俳句に限らない。
山風のふたたびみたび薄氷 直人
雪解けの水また氷る山颪 〃
八方の晴れ尽したる春氷 〃
尾を引いて風の音する春氷 〃
第一句は、薄氷に、春浅い頃のまだ荒い山風がいく度となく吹き下ろしている景である。薄氷と山風との取合せだが、薄氷よりも、いく度も山から吹き下ろしてくる風の荒々しさにこの句の焦点がある。
第二句も、第一句と同様、まだ寒さの残る頃の山国の情景であり、薄氷と山颪との取合せだが、この句においては、山颪よりも、寒暖の繰り返しの中で、一たん解け出して再び結氷した水の情景に焦点がある。
第三句では、風は吹き静まっている。朝方は冷え込んで薄々と結氷したものの麗らかな春の日差しが射して、これから暖かくなる気配がある。下五に「春氷」と置いたことは、ha音を交える音韻の効果もあって、この句の印象を明るいものにしており、そこに、自らの風土に寄せる作者の内面の反映を見ることができる。
第四句は、やはり、春氷と風との取合せの作であり、下五に「春氷」と置いたことにより、寒暖の繰り返しの中で春に向う明るさがより鮮明である。
以上のように、直人俳句においては、自らの風土を形作る素材が繰り返し登場し、一つの素材を中心として、複数の作品群が、それぞれが独立した内容でありながら、言わば同心円をなして存在しているといえよう。
春になって萌え出した菊の苗の若葉のこと。多年草の菊は、秋に花が咲き終わると、枝を根元から短く切って年を越す。春に根元から若い芽が萌え出し、やがて若葉となる。

山・高原・海辺などの自然の中で野営すること。キャンピング(天幕生活)の略語。自然に親しむために、天幕を張り自炊をして野外生活を楽しむ。夜は、かがり火を焚き、それを囲んで合唱やフォークダンスなどに興じることも多い。

龍太の初期作品に、
いきいきと三月生る雲の奥 龍太
の作がある。この「雲」は、定住の意思が定まった時期における作者の目に映じた故郷の雲であり、「いきいきと」の措辞には、三月の雲の明るさ、白さとともに、山国人として、待ちに待った春を迎える喜びが表われている。この句には、対象のもつ現実の相、そのなまなましさを感受して、それを作品に定着させようとする蛇笏譲りの志向がみえる。蛇笏の場合、例えば、
夏雲むるるこの峡中に死ぬるかな 蛇笏
の作では、峡の空に立ち塞がる夏雲の激しい自然相が、「むるる」の措辞により的確に捉えられている。そのなまなましい現実の相に触発されて、作者の胸中に、死に至るまでの自らの行く末を透視するような想念が生まれた。この蛇笏作と前掲の龍太作とでは、詠われている内容は全く異なるが、両句の措辞「むるる」、「いきいきと」が、いずれも対象の真へ肉薄しようとする志向から生まれたものであるところは共通している。
一方、龍太の円熟期の作品、特に句集『遅速』所収の
白雲のうしろはるけき小春かな 龍太
などの句になると、作中の「雲」には、故郷や甲斐といった作者が現に身を置いている地の風土から自由になった身軽さがある。この句は、故郷にあって作者が日々目にした諏訪口から甲府盆地へ向って流れて来る雲の印象から生まれた作と思われるが、作句の契機はともかく、この句の「雲」には、現実の雲のもつ雨を降らせそうな潤いやぼってりとした重さは失せ、この世とかの世を自在に行き来しているような軽さがある。円熟期の龍太作品にみられるこのような傾向は、
天の川のもとに天智天皇と臣虚子と 虚子
初空や大悪人虚子の頭上に 〃
などの作にみられる虚子の自在さ、放縦さと、作品の肌合いは全く異にするものの、印象として、どこかに通い合うところがある。
これに対して、直人の詠む「雲」は、前掲の蛇笏作と同様に、重さや湿り気などなまなましい現実の相を帯びている。
夕暮は雲に埋まり春祭 直人
白雲の追ひついてくる暑さかな 〃
第一句では、春祭を荘厳するかのように夕暮れの明るい雲が郷里を包んでいる情景が詠まれており、なかなか暮れようとしない晩春の頃の駘蕩とした時間の流れとともに、夕暮れどきの柔らかな明るさがある。この作の「雲」は、前掲の龍太作の「白雲」の自在さとは異なり、郷里に根を下ろしてそこを離れることなく、定住、土着する作者をしっかりと包みこむ。
一方、第二句では、故郷にあって、作者と抜き差しならない関係にある「白雲」のもつ「暑さ」、鬱陶しさが詠われている。それは、ひいては、一ところに住み続けることによる宿命的な「暑さ」でもあろう。
以上のように、両句には、故郷に定住、土着することに伴う作者の内面の明暗が対照的に表れている。その明暗の振り幅は、故郷に根を下ろして生きていくことそのものと言える。
蝸牛桜は雲の湧く木なり 直人
曇天の蒸して葡萄に色が来る 〃
掲出の第一句には、「蝸牛」を目にする頃の鬱勃とした季節にあって、そこに根を張って立つ桜の木が詠われている。桜の木は既に花の時季を過ぎて、鬱蒼と葉を茂らせており、雲が被さってくることにより、木のもつ生気が一層いきいきと感じられる。桜の木のいのちに共感を寄せている壮年期の作者の内面の充足感とともに、どことなく明るい諦念も感じ取れる作品である。
第二句の、秋になってなお蒸し暑い曇天には鬱陶しさもあるだろうが、他方、葡萄の化育に不可欠の、生命を育む暑さでもある。この句の「葡萄」と蒸し蒸しする「曇天」には、抜き差しならぬ関係にあるものの間の緊張感があるが、曇天の鬱陶しさを、自らの風土にとって必要なものとして肯定的に感受していこうとする志向が見える。
以上のように、直人俳句における「雲」は、作者の心に明暗を投げかける存在であり、その気になればいつでも雨を降らせそうな重さや湿り気を備えている。それは、故郷やそこに定住する作者を桃源郷のように明るく包むこともあり、また、時には、鬱陶しいものとして疎んじられることもあるが、作者の風土に欠かせないものとして詠われている。