夜が長い秋は闇に親しむ季節だ。闇の中で虫の声に耳を澄ましていると、来し方やわが身の行く末のことが胸中を去来する。
掲句は暗がりで虫の鳴き声に包まれていての作。近くの闇に鳴いているコオロギも、たまたまコオロギに生まれて、今を生きている。私も60余年前に人に生まれて今を生きている。人の命もコオロギの命も、ともに宇宙の生々流転の中にあるというようなことを思った。令和4年作。
夜が長い秋は闇に親しむ季節だ。闇の中で虫の声に耳を澄ましていると、来し方やわが身の行く末のことが胸中を去来する。
掲句は暗がりで虫の鳴き声に包まれていての作。近くの闇に鳴いているコオロギも、たまたまコオロギに生まれて、今を生きている。私も60余年前に人に生まれて今を生きている。人の命もコオロギの命も、ともに宇宙の生々流転の中にあるというようなことを思った。令和4年作。
俳句で小鳥といえば、尉鶲、鶸など秋に渡ってくる小鳥たちや、留鳥であっても、秋に山地から平地に下りてくる小鳥たちのこと。春から夏にかけて姿を見せなかった尉鶲のよく通る声を庭先に聞くと、秋の到来を実感する。
掲句は多摩全生園の園内を散策したときの作品。園内にかつてあった分校の跡地は公園となり、記念碑を残すのみとなっていた。記念碑のレリーフに手で触れると、ひやりと冷たい感触があった。令和4年作。
秋風は、万物衰退の季節に吹く風である。身にしみてあわれを添える光景の中を吹き抜けてゆく。
掲句は魚河岸での嘱目を作品にしたもの。魚が捌かれて、生きて海原を泳いでいたときの姿から、一個の食材へと変貌してゆく。包丁さばきの手並みが鮮やかであればある程、あわれさを感じさせる光景だった。平成24年作。
ななかまど(七竈)は、バラ科ナナカマド属の落葉高木。晩秋の深紅で燃えるような紅葉もいいが、落葉の後に残っている赤い実も風情がある。
掲句は長野の野辺山高原での作品。間もなく雪が覆うであろう晩秋の山々は、澄んだ空気の中で荒々しい山膚を見せていた。畑と駐車場の境のななかまどの葉が、真っ赤に色づいていた。令和2年作。
露は、地球上の水の循環にともなう現象。大気中の水蒸気が、夕方から夜、明け方にかけての気温の低下により木々や草に結露する。四季の中では秋に顕著に現われる現象だ。古来から、生命のはかなさの譬えに用いられてきた。
掲句は、目の前の蜘蛛の吐く糸のひかりに触発されてできた作品。林中に差し込む日差しを受けて、木や草に凝った露とともに、蜘蛛の吐く糸がきらきらと光っていた。爽やかに晴れた朝の光景だが、限りある蜘蛛の命やその営みのはかなさに対する思いもあった。令和元年作。