「茸山(きのこやま、たけやま)」は自生の茸が生えている山林のことで、「茸狩」の傍題。食用になる茸は、松茸をはじめ初茸、椎茸、シメジ、ナメコなど種類が多い。
掲句は、茸狩の季節に長野の野辺山高原を歩いたときの作品。カラマツの傍らに、イグチダケが栗色の傘を広げていた。まだ虫がついていない若い茸を選んで採った。ナメコのような滑りのある茸で、夜、汁物に入れて食べた。山の天気は変わりやすく、ひとしきり雨が通り過ぎると、雲間から日がこぼれた。平成24年作。
「茸山(きのこやま、たけやま)」は自生の茸が生えている山林のことで、「茸狩」の傍題。食用になる茸は、松茸をはじめ初茸、椎茸、シメジ、ナメコなど種類が多い。
掲句は、茸狩の季節に長野の野辺山高原を歩いたときの作品。カラマツの傍らに、イグチダケが栗色の傘を広げていた。まだ虫がついていない若い茸を選んで採った。ナメコのような滑りのある茸で、夜、汁物に入れて食べた。山の天気は変わりやすく、ひとしきり雨が通り過ぎると、雲間から日がこぼれた。平成24年作。
「種採(たねとり)」は花の終わった草花の種を集めること。天気のよい日に採取して乾かし、花の種類や色によって袋を分けて納める。
掲句はシロヤマブキやアサガオの種を採ったときの作品。といっても、沢山の種を集めようという目的がある訳でもないので、庭に出て、手慰みに草々の種を採ったまでのこと。ようやく暑さがピークを越え、いつしか高くなった空を、真っ白な雲が群がっては散った。平成26年作。
「黄落」はイチョウ、クヌギなど黄葉した葉が落ちること。公園、寺社、街路などをイチョウやプラタナスなどの黄ばんだ葉が彩るさまは、明るさとともに深みゆく秋を思わせる。
掲句は東京中野区にある新井薬師の本尊を詠んだもの。薬師如来と如意輪観音の二仏が一体に合した黄金仏であり、公開されるのは何年かに1回なので、そのときも直接本尊を目にする機会はなかった。しかし、心に思い描く本尊は、寺域やその周辺一帯の黄落の明るさにつつまれて、人々の信仰とともに存在し続ける。平成26年作。
「稲架(はさ)」は刈り取った稲の束を天日で乾燥させるための木組みのこと。遅く育ち、遅めに収穫される「晩稲(おくて)」が「稲架」に掛けられるのは晩秋の頃。ひと雨降るたびに秋が深まっていく。
掲句は、日々古びていく「晩稲稲架」の色合いの変化に秋の深まりを感じて詠んだもの。刈り取られたばかりの青みがかった稲の束は、日差しと風で2週間ほど乾燥させるのだが、時には夜雨に濡れ、また、晴天の日は露に濡れながら、徐々にくすんだ色合いを呈していく。乾燥機が普及した現在、稲架掛けの光景を目にすることは少なくなった。平成28年作。
「案山子(かがし)」は竹や藁を材料に人の形を作り、蓑笠を着せ田畑の中に立てて鳥獣を威し、その害を防いだ。最近ではいろいろなキャラクタ-が案山子として登場し、稲刈りが済んだ田圃では案山子祭が行われて賑わう地域もある。
掲句は秩父郡横瀬町にある寺坂棚田を訪れたときの作品。折から稲刈りの時期で、既に刈り取られた田圃と黄金色に稔った田圃がほぼ半々だった。330枚ほどもある棚田のところどころに案山子が立っていて、ふと案山子の襷に赤い文字で書かれた「祝婚」の2字が目に入った。この地で稲作に従事している青年たちの中に、この秋、皆から祝福されて結婚する人がいるのだろう。その青年の幸福や周りの人たちの祝意が、豊作の光景とともに暖かい湯気のように私の心を包んだ。平成28年作。