「秋の川」は秋になって冷ややかに清く澄んだ川。日の当たる川底に、魚影や落葉の影がくっきりとどく。川岸には丈高い草の穂が風に靡く
掲句は、青梅線のとある駅で下車して、上流の多摩川べりを歩いたときの作品。両岸には青梅の山々が迫り、川はその山陰を飛沫を上げながら流れた。当日、素材になりそうなものは数多くあったが、「日陰」「日向」と対象を単純化したことによって、山間(やまあい)を流れる川の冷え冷えと澄んだ感じが表現できていれば幸いだ。平成5年作。『河岸段丘』所収。
「秋の川」は秋になって冷ややかに清く澄んだ川。日の当たる川底に、魚影や落葉の影がくっきりとどく。川岸には丈高い草の穂が風に靡く
掲句は、青梅線のとある駅で下車して、上流の多摩川べりを歩いたときの作品。両岸には青梅の山々が迫り、川はその山陰を飛沫を上げながら流れた。当日、素材になりそうなものは数多くあったが、「日陰」「日向」と対象を単純化したことによって、山間(やまあい)を流れる川の冷え冷えと澄んだ感じが表現できていれば幸いだ。平成5年作。『河岸段丘』所収。
茶はツバキ科の常緑低木で、初冬、金色の蘂をもつ白い五弁の花をつける。芳香のある清楚なたたずまいの花。
掲句は、狭山茶の産地に住む私にとって身近な花である茶の花を詠んだ一句。茶の花は冬の季語になっているが、実際に咲き始めるのは10月頃からで、霜が降りる頃には花は生気を失う。折から関東近辺では天候が安定し、空気が入れ替わったようにからりと澄んでくる季節。「八荒(はっこう)」は国の八方の果て・国の隅々の意で、見渡す限り澄みわたった関東平野の大景の中に茶の花を点綴してみた。平成19年作。『春霙』所収。
「紅葉狩」は紅葉の美しさを鑑賞するために山野、渓谷を訪ねること。よく晴れた日、誰にも気兼ねなく独りで訪れるのもいいが、家族や親しい人と眺める紅葉もまた格別である。
掲句は紅葉狩に出掛けて、瀧を眼前にした後の余韻を句にしたもの。晩秋になっても水量を保つ瀧の清冽さは、夏の涼味とは違う味わいがある。澄んで清らかな水が真っ白に落下するさまを目の当たりにして、その後山路を辿る。四囲の紅葉を愉しみながらも、胸中の冷え冷えとして清冽な瀧のイメージはしばらく消え去ることはない。平成18年作。『春霙』所収。
「紅葉かつ散る」(秋季)は木々の葉が紅葉しながら同時に散るさま。「紅葉散る」(冬季)とは別の、秋たけなわのゆったりした時間の流れが感じられる季語。
掲句は春日部市内を流れる古利根川や元荒川の川べりを歩いたときの作品。かつての水運としての役割を終え、ゆったりと流れる川のほとりには、捨て舟とおぼしき古びた舟が係留されたままになっており、舟底の雨水には辺りの桜紅葉が散り込んでいた。今でも「紅葉かつ散る」頃になると、かつての水運の町の秋晴れを堪能したこの日のことが思い起こされる。平成14年作。『河岸段丘』所収。
「豊年」は五穀一般の実りのよいこと。ことに稲の実りがよいことをいう。「豊年や」と上五に置くとき、眼前に思い浮かべるのは一面に実った稲穂の波だ。
掲句は一面実った稲田の上を翔ける一群の鳥を描いた作品。どのような心理か習性かは知らないが、鵙などを除き、鳥たちの多くは実りの秋から冬にかけて群れで過ごすようだ。時には群れの中に種類の違う鳥が交じっていることもある。雀など普段は余り目につかない鳥たちも、この時季には気負ったように群がって餌のある所に我先に翔けてゆく。刈田の落穂などを啄んでいるのだ。冬が到来する前の鳥たちの懸命な営みであろう。平成27年作。