「蜥蜴(とかげ)」はトカゲ亜目に属する爬虫類の総称。肌はぬれて光沢があり、青や緑の縞模様がある。春先、冬眠から覚めた蜥蜴が穴を出て動き出すことを「蜥蜴穴を出る」「蜥蜴出づ」などという。
掲句は吹き溜まった枯葉の中に、春先、蜥蜴を見かけての作品。冬の間姿を見せなかった蜥蜴が人の目に触れるようになるのも、春の到来を知らせるものの一つだ。まだまだ冷たい風が木や枯葉を鳴らしていた。視線に敏感な蜥蜴は、ちらっと姿を現しただけで、たちまち枯葉の底に潜り込んでしまった。令和7年作。
「蜥蜴(とかげ)」はトカゲ亜目に属する爬虫類の総称。肌はぬれて光沢があり、青や緑の縞模様がある。春先、冬眠から覚めた蜥蜴が穴を出て動き出すことを「蜥蜴穴を出る」「蜥蜴出づ」などという。
掲句は吹き溜まった枯葉の中に、春先、蜥蜴を見かけての作品。冬の間姿を見せなかった蜥蜴が人の目に触れるようになるのも、春の到来を知らせるものの一つだ。まだまだ冷たい風が木や枯葉を鳴らしていた。視線に敏感な蜥蜴は、ちらっと姿を現しただけで、たちまち枯葉の底に潜り込んでしまった。令和7年作。
「椿」は万葉集以来歌に詠まれ親しまれてきた春を代表する花の一つ。つやつやした肉厚の葉の中に真紅の花を咲かせる。「落椿」という言葉があるように、花びらが散るのではなく、花一つ一つが丸ごと落ちる。最も一般的な藪椿のほか、八重咲や白椿、雪椿など多くの品種がある。
掲句は近くの公園での作品。ゆっくりと上ってきた太陽が木立を抜けて椿を照らし出す頃、ラジオ体操に来ていた人々も去り、公園は静寂を取り戻す。花の蜜を吸いに来た鵯やメジロの声の中にしばらく佇んで、椿を眺めた。どれもごく一般的な一重の紅椿である。時折かさっと乾いた音がして椿が地に落ちた。令和7年作。
「龍太忌」は俳人飯田龍太の忌日で、2月25日。平成19年のこの日86歳で亡くなった。
鶫(つぐみ)は晩秋の頃北方から日本に渡ってきて、比較的春が深まるまで日本にとどまる冬鳥。単に鶫といえば秋の季語になる。春の日がようやく暮れかかる頃、畑の暮靄(ぼあい)の中から聞こえてくるその声には、ひと冬馴染んだ地を惜しんでいるような素朴な味わいがある。そんなとき、龍太が鶫のことに触れたいくつかのエッセイを思い起こした。令和7年作。
「躑躅(つつじ)」はツツジ科ツツジ属の常緑又は落葉低木の総称。ヤマツツジ、レンゲツツジなどが山野に自生するほか、庭や公園、街路などに多数の園芸品種が植えられる。晩春から初夏にかけて、色とりどりの花を咲かせる。
掲句の対象は、標高1500メートルほどの山中に咲くレンゲツツジ。花期は6月上旬頃。その頃の空合は変わりやすく、薄日が差したかと思うと、ぱらぱらと雨が通り過ぎる。「腐(くた)す」の語は、その頃のしとしと雨に傷んで溶けていくような自生の躑躅の印象を表現しようと思って使った。丁度新緑の頃で、初々しい緑が野山に満ちていた。平成19年作。『春霙』所収。
「花疲れ」は花見に出掛けたあとの疲れのこと。人出の多い中を
歩き回った疲れに加えて、花の美しさに酔いしれたあとの疲れが柔らかく五体を包む。その物憂さや気怠さには、花どきの浮き立つような気分も混じる。
掲句は出掛けた先で入った寿司店での作。桜の頃に限ったことではないが、寿司ねたになる魚やエビ、貝類は、どれもこれも美しい。中でも「光りもの」といわれるコハダやサバ、アジなどを板前が握っている間、それをカウンター席に座って眺めるのは愉しいひと時だ。その日は、一日の行楽にさすがに疲れて、板前の手元をぼんやり眺めていた。花どきの心地よい疲れが、私の心と身体を包んでいた。平成5年作。『河岸段丘』所収。