奥羽行脚を終えた芭蕉は、元禄2年9月に大垣から川舟で下り、曾良の伯父精秀法師の寺である大智院に泊まった。伊勢参宮に向かう途中だった。 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺 芭蕉 寺に止宿したときの作である。「秋の寺」の「秋」の一字と響き合って、沁みとおるような寂しさが漂う一句だ。しかし、元禄4年には、落柿舎滞在中の『嵯峨日記』では、次の形に改案している。 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉 芭蕉は、旧作に飽き足りないものを感じていたのだ。確かに下五が「秋の寺」では説明に堕して平板な作品に終わっている。「閑古鳥」への呼びかけとすることで、閑寂境を求める心境に厚みが生まれた。閑古鳥は郭公の異名。郭公には、閑古鳥、呼子鳥などの異名があるが、この句の場合は閑寂境にあって明るさの中に寂しさを感じさせる閑古鳥の呼称がいい。『嵯峨日記』では、この句が、 山里にこはまた誰を呼子鳥独り住まんと思ひしものを 西行 への共感から成った作である旨を記している。西行の寂しさをあるじとする心境に徹したいとの思いがあるだろう。西行の歌では、閑寂境の妨げになる存在として呼子鳥を登場させているのに対し、この句では、閑寂境に誘い込む存在としての閑古鳥が詠まれているところが面白い。芭蕉が、西行の境地をどのようにして我が物にしていったかが窺える改案だ。
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雨宮更聞氏の自選自解句集『時習』を読んでいて、「(着流し姿の)こんな寛いだ姿も印象深いが、正装で出掛ける時の凛々しい姿にこそ、蛇笏と云う俳人の全てがあった様に記憶する。」との一文に目が留まった。雨宮氏は蛇笏、龍太父子と同じ集落(山梨県旧境川村小黒坂)の住人であり、生前の両師に近くで接してきた俳人である。氏のこの一文は、蛇笏の人となりや句風をよく言い当てているように思う。 ゆかた着のとけたる帯を持ちしまま 蛇笏 蛇笏にはこのような寛ぎの気配を感じさせる句もあるが、やはり本領は次のようなきりっとしたタテ句だろう。 極寒の塵もとゞめず岩ふすま 蛇笏 芋の露連山影を正うす 〃 「芋の露」の句の「正うす」は、秋たけなわの連山の形容であるとともに、蛇笏の心の姿でもあった。そして、蛇笏の希求した心の姿が生涯をとおして 変わらなかったことは、 誰彼もあらず一天自尊の秋 蛇笏 に至る戦後の作品を見ても明らかだろう。
かつて山本健吉は、蛇笏の句を評して、「彼(蛇笏)にあっては、姿を高く正しく保とうという欲求の熾烈さが、いささか自由さをそこなっていると思われる。」と書いた(『定本現代俳句』)。確かに、蛇笏にも、 薔薇園一夫多妻の場をおもふ 蛇笏 など、発想や連想の豊かさを感じさせる句はあるが、例えば 天の川わたるお多福豆一列 楸邨 にみられるようなユーモアや諧謔には乏しい。それは戦後逆縁の悲しみの中にあったこととも無関係ではないが、やはり蛇笏の本来の資質がタテ句にあったことが大きいだろう。
これに対して龍太はどうか。龍太の俳句観は、「私は、・・・俳句は、いわば普段着の文芸と考えている。」(『普段着の文芸』)との件に端的に表れている。実作では、 露の夜は山が隣家のごとくあり 龍太 涼新た傘巻きながら見る山は 〃 など家居の寛ぎを感じさせる諸作がある。そして、龍太が、『おくのほそ道』のなかで最も好きな句として挙げているのが、 文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉 であることにも、龍太のこの俳句観の反映を見たい。『おくのほそ道』には、「文月や」の句のすぐ前に、かの高名な 荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉 が出ている。「荒海」が正装の句だとすれば、「文月」の句は普段着の句といえるのではないだろうか。