返り花いま夜の国と昼の国 龍太
「雲母」昭和63年1月号。
「返り花」は小春日和に誘われて、春に咲く草木が季節外れの花をつけること。サクラ、ツツジ、ヤマブキ、タンポポなどに見られる。作者は庭先の日だまりの返り花に目を留めながら、地球上に今「夜の国」と「昼の国」があることを思っている。地球の自転のため、多くの国では夜と昼が交互に訪れる。ただそれだけの内容だが、海外に足を運んだことのない龍太にも、国外への旅に憧れる思いがあったのだ。眼前のささやかな返り花と遠い異国へと広がる想念の間の落差が快い。
返り花いま夜の国と昼の国 龍太
「雲母」昭和63年1月号。
「返り花」は小春日和に誘われて、春に咲く草木が季節外れの花をつけること。サクラ、ツツジ、ヤマブキ、タンポポなどに見られる。作者は庭先の日だまりの返り花に目を留めながら、地球上に今「夜の国」と「昼の国」があることを思っている。地球の自転のため、多くの国では夜と昼が交互に訪れる。ただそれだけの内容だが、海外に足を運んだことのない龍太にも、国外への旅に憧れる思いがあったのだ。眼前のささやかな返り花と遠い異国へと広がる想念の間の落差が快い。
冬帝が五湖ことごとく瞰てゐたり 龍太
「雲母」平成4年3月号。句集『遅速』刊行後に作られた作品。
「冬帝(とうてい)」は寒さの厳しい冬を擬人化した言葉で、冬を司る神の意。「五湖」といえば知床五湖、三方五湖などもあるが、ここでは富士五湖を念頭に置きたい。富士の裾野に点在する河口湖や山中湖、本栖湖などを上空から冬帝が見ているとの句意。「瞰(み)る」には、「俯瞰」という言葉があるように、高い所から広い範囲を見下ろして眺める意味合いがある。一読、晴れわたった空のもと、深々と紺碧の水を湛えた五つの湖が見えてくる。われわれ読者も、冬帝とともに上空に漂っているような錯覚を覚える。老境に入ってからの作品だが、そのとらわれない自由な発想には驚かされる。
草紅葉かの世の余技はなにならむ 龍太
「雲母」平成2年11月号。
同時発表句に 鯊ともに釣りし笑顔のいくたびも 龍太 があり、前書きが付されていないので詳細は不明だが、何度か海釣り・川釣りをともにした知友の逝去を悼んだ作品ということが分かる。足元の草紅葉を眺めながら、先に逝ってしまった友のかの世での余技に思いを巡らせている。さらりとした平明な表現の中に、故人との生前の交誼を偲ぶ思いが感じられて味わい深い。
句集に収められていないが、この時期の龍太の句として上乗の出来栄えと思われる。
春の雪違約ひとつが棘のごと 龍太
「雲母」平成元年6月号。
「春の雪」は春になって降る雪のことで、かなり温暖になってから思いがけず降ることが多い。雪片は大きいが、積もることなく消えてゆく。掲句は、春の雪が降るその明るさの中で、ある人との約束を違えたことを、指などに刺さった棘のごとくに感じているとの句意。「違約」の一語が、読後いつまでも気にかかる。どんな約束を違えたのか。だが、作者からはその説明はない。気にかかること自体、作者の詩の術中にはまった証拠だ。いずれにしても、「春の雪」が、作者の気がかりをふんわりと明るく包むところがいい。
このような型にはまらない作品が句集に収められていないのは、当時の龍太の美意識の網目から漏れたということだろう。
今昔のこころゆききす春隣り 龍太
「雲母」昭和63年5月号。
この句には「二月某日、NHK教育テレビ「授業」といへるシリーズのため、母校境川小学校六年生としばしの時を過す。」との前書きがあり、併せ読めば句意は明らかだろう。当時68歳の龍太は、自らが小学生だった頃の自分と目の前の小学生たちを重ね合わせて、改めて経過した歳月の厚みを感じたのだと思う。
「今昔(こんじゃく)」は今と昔の意で、円熟期の龍太が好んだ言葉の一つ。句集『山の木』には〈枯山の月今昔を照らしゐる 龍太〉がある。また、『今昔』は第8句集の句集名でもある。『遅速』に収める作品を自選する際には、既に〈枯山の・・・〉の作があることから、敢えてこの句を選ばなかったのだと思う。確かに、この句に前書きがなければ、作者の思いは伝わるものの、輪郭がやや不明確なところがある作品である。