博多祇園山笠は博多の櫛田神社の夏祭。博多祭ともいう。祭の熱気が最高潮に達するのは7月15日の「追山笠(おいやま)」で、この祭の掉尾を飾る神事。早朝、太鼓の合図で山笠が次々走り出し、熱気と興奮の中四キロ余のコースのタイムを競う。
掲句は山笠を担う舁き手が、息を揃えて太鼓の合図を待っている場面。舁き手にとっても観客にとっても緊張の一瞬だ。観客の一人である作者も、舁き手と息を合わせて、今か今かと太鼓の合図を待っているのだ。『俳壇』2023年8月号。
博多祇園山笠は博多の櫛田神社の夏祭。博多祭ともいう。祭の熱気が最高潮に達するのは7月15日の「追山笠(おいやま)」で、この祭の掉尾を飾る神事。早朝、太鼓の合図で山笠が次々走り出し、熱気と興奮の中四キロ余のコースのタイムを競う。
掲句は山笠を担う舁き手が、息を揃えて太鼓の合図を待っている場面。舁き手にとっても観客にとっても緊張の一瞬だ。観客の一人である作者も、舁き手と息を合わせて、今か今かと太鼓の合図を待っているのだ。『俳壇』2023年8月号。
祭半纏は祭に着る晴れの衣装だ。山車を引くにも、神輿を担ぐにも、祭衆は揃いの半纏を着て盛り上がる。中には、観衆が祭衆や神輿に向かって水を掛ける深川祭のように、祭最中に半纏がびしょ濡れになる祭もある。
掲句は「深川祭」との表題の下に発表された諸作の中の一句。神輿等の中休みだろうか、祭衆が昼酒を飲みながら肌脱ぎになって、びしょ濡れの半纏を肩に掛けているのだ。水掛け祭との別名のある深川祭らしい情景を捉えた作品だ。『俳壇』令和5年8月号。
豆ごはんは、剥いた豌豆(グリーンピース)を炊き込んだご飯。真っ白なご飯に交じる鮮やかな豆の緑 を眺めながら豆ごはんを口に運ぶ。人間に与えられた楽しみの一つだ。
掲句は、豆ごはんから、庭前の木々の初々しい緑と木々の間にひらける初夏の青空を想像したい。「雲消えて空ひろくなる」とは平明だが、決して平凡な把握ではない。今まで浮かんでいた群雲がとこかへ流れ去った後、広々とした空が残されたのだ。夕餉どきの広々とした空は、ゆっくりと暮れてゆく。『俳壇』2023年8月号。
ビールは四季を通じて飲用されるが、冷やしたビールをグラスに満たし、一息に飲む爽快さは夏のもの。左党にとって、暑い日の日暮れどき、冷えた缶ビールを一気に喉に流し込むのは、雑念を忘れさせる至福の瞬間だ。
掲句は、木登りをしている人に缶ビールを投げてやろうかと、自らに問い掛けているとの句意。誰が何のために木登りをしているのかなどと問う必要はあるまい。一切の状況説明は省略されているが。夏という季節のもつ解放感や、缶ビールを投げて渡すような作者とその人の間の親密さが伝わってくれば足りる。何の構えもない、異色の楽しい作品だ。『俳壇』2023年8月号。
葉桜には、既に散ってしまった花を惜しむ思いと、桜の若葉の清々しさを愛でる思いが入り交じる。後ろを振り返ろうとする心と、前を見て進もうとする心が交錯する。
掲句の葉桜には、過ぎ去った花時を惜しむような情緒の湿りはない。葉桜に差す初夏の光はからりとして清々しい。五十代といえば仕事でもプライベートでも様々な役割を担い、それに応えていかなければならない年代だ。それでも、多忙な生活の中でふと「閑」のひと時が訪れることがある。そんな時は、立ち止まって己の来し方行く末を思うのもいいし、好きなことに没頭するのもいいだろう。人生の充実期に、前を向いて歩んでいる人の息遣いが聞こえてくる作品だ。『俳句』2023年7月号。