「夏惜しむ」は去りゆく夏の名残を惜しむこと。「夏の果」の傍題。立秋を過ぎる頃、避暑地や旅先などで夏を惜しみ、また、日常生活のふとした瞬間に夏の終わりを実感する。
断捨離という言葉があるが、日々身の回りに置いているモノを捨て去るのは簡単でない。この夏もそれらのモノを捨てられないまま、季節の終りを迎えようとしている。作者の日常感覚の中に「夏惜しむ」という季語を活かしている一句。『俳句』2024年8月号。
「夏惜しむ」は去りゆく夏の名残を惜しむこと。「夏の果」の傍題。立秋を過ぎる頃、避暑地や旅先などで夏を惜しみ、また、日常生活のふとした瞬間に夏の終わりを実感する。
断捨離という言葉があるが、日々身の回りに置いているモノを捨て去るのは簡単でない。この夏もそれらのモノを捨てられないまま、季節の終りを迎えようとしている。作者の日常感覚の中に「夏惜しむ」という季語を活かしている一句。『俳句』2024年8月号。
「白玉」は白玉粉を水で捏ねて団子状にし、茹でて冷水や冷蔵庫で冷やし、茹で小豆などの甘味を添えて食べる。見た目も涼し気な夏の和菓子。
掲句は齢を重ねることの面白みを感じさせる作品だ。聞こえていても聞こえていないふりをする、というのは齢を重ねて身についた一種の技巧。そこに老獪さがない訳ではないが、作者はそれを良しとする。「白玉」を食べる幸福感に、自らの老いを肯う思いが交錯する。『俳句四季』2024年8月号。
「賀茂祭」は5月15日に行われる京都の上賀茂・下鴨両社の祭礼で、京の三大祭の一つ。葵祭ともいう。
掲句は「賀茂祭」当日の行列の中の牛車を描写した作品。藤の花で飾り立てた御所車を牛が曳き、その牛を狩衣姿の子が曳いている情景には華やぎと微笑ましさがある。「賀茂祭」の一場面を、京都に住む人の目で的確に切り取った一句。『俳壇』2024年8月号。
「麦秋(ばくしゅう)」は「麦の秋」ともいい、5月下旬、麦が黄熟し刈り入れ間際の頃をいう。自ずから、風に乾いた音を立てる黄金色の麦畑の風景が思い浮かぶ。
掲句は「麦秋」という開放感のある季節を背景に、日常の一齣を切り取った作品。椅子の上に読みさしの本を伏せて置くというのは、日常目にする何の奇もない情景だが、「麦秋や」との上五により、屋外に持ち出された椅子とその上の本が、作者の心豊かな日常を映し出す景物として、確かな存在感を持ってくる。『俳壇』2024年8月号。
「端居(はしい)」は、夏の夕方などに、室内の暑さを避け涼を求めて、風通しのよい縁側や窓辺近くに出て寛ぐこと。庭を眺め外気に触れて暑さを忘れる贅沢なひと時だ。
掲句は夏の夕暮れどき、縁側などで寛いでいる場面だろう。聞くとなく耳に届く近隣の生活音を、人の声や厨房の食器音などを含めて「昭和の音」と表現したところがいい。自ずから隣近所の家々との物理的・心理的な距離の近さが感じられ、「向こう三軒両隣」という、今では廃れてしまった言葉が懐かしく思い起こされる。『俳壇』2024年8月号。