フランス紀行Ⅱ(12)

パリの南東約70キロメートルに位置するフィンテーヌブロー宮殿を訪れたのは旅の後半の一日。パリの南西約20キロメートルに位置するヴェルサイユ宮殿よりも、パリからさらに離れたところにあり、広大なフォンテーヌブローの森に囲まれていた。元々は歴代国王の狩猟用の館。16世紀になって、フランソワ1世がイタリアのルネサンス様式を取り入れて本格的に改築した。その後、アンリ2世やアンリ4世、ルイ15世、そしてナポレオン1世など、数世紀にわたり多くの王や皇帝が好みに合わせて改装・拡張を繰り返したため、中世の要塞からルネサンス、バロック、帝国様式まで多様な建築・装飾が混ざり合っている。宮殿の壁や天井、門などの至る所に、フランソワ1世の「F」、アンリ2世の「H」、ナポレオン1世の「N」などのイニシャルが残されていた。

次の写真は、「白馬の中庭」と呼ばれる広場をチケット売り場の前から撮った一枚。(小さく映っている)正面中央の馬蹄形の階段は、1814年にナポレオン1世が退位を余儀なくされ、エルバ島へ流刑される前に近衛兵たちと別れを惜しんだ場所として知られる。

次の写真は、画家フランソワ・ジェラールが1805年頃に描いたナポレオンの肖像画。皇帝の座に就いたばかりの若々しく生気溢れる表情が印象に残る。各種調度品や戴冠式で用いた剣などとともに、宮殿内のナポレオン1世博物館に展示されていた。フランス革命で荒廃したこの宮殿を短期間に修復し、帝国の象徴へと蘇らせたのはナポレオンの功績である。当時、パリ中心部にあるチュイルリー宮殿が公式の執務宮殿だったが、 この宮殿が気に入ったナポレオンは、四輪馬車に乗って頻繁にここを訪れたという。せわしないパリの政治から離れてリフレッシュしたいナポレオンにとって、この宮殿は実用的で心地よい環境を提供したのだろう。因みにナポレオンの在位は1804年~1814年及び1815年(百日天下)の2回。

宮殿内のフランソワ1世のギャラリー。イタリア風ルネサンス美術とフランス芸術が融合した、宮殿を代表する豪華な装飾空間。壁面の木製パネル(寄木細工)、漆喰装飾、フレスコ画などが目を引いた。

宮殿内のタペストリーの間。主殿宮(大居室)に位置する、壁一面が豪華なタペストリーで装飾された美しい応接間である。元々は王妃を守るための衛兵室や控室だったが、19世紀に大改修が行われたという。

重要な王族の結婚式や洗礼式などが執り行われてきた三位一体礼拝堂。16世紀にフランソワ1世によって着工され、アンリ4世、ルイ13世の時代(17世紀初頭)にかけて豪華な装飾が完成したという。王族が毎日のミサに参列するために、居住区からこの礼拝堂へ直接アクセスできる回廊も造られている。なお、国王や王妃がミサを執り行うのを見下ろすための専用のバルコニーは、後方の二階にあった。私たちが訪れたときは、チェロによる室内楽の演奏会が行われていた。

宮殿敷地内の「鯉の池」。水面に宮殿のファサードが映り込む憩いのスポットである。池の名は、17世紀初頭にアンリ4世がロレーヌ公から贈られた60匹の鯉を放流したことに由来するという。好天のもと、貸しボートを漕いでいる人もいた。

ヴェルサイユ宮殿と比べると観光客も少なく、落ち着いた雰囲気の中で宮殿内外を巡ることができた。


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