端午の節句に兜や槍などの武具を飾ること。金時、鍾馗、桃太郎、弁慶などの武者人形とともに飾ることも多い。男の子が健やかに育つようにという願いが込められている。

端午の節句に兜や槍などの武具を飾ること。金時、鍾馗、桃太郎、弁慶などの武者人形とともに飾ることも多い。男の子が健やかに育つようにという願いが込められている。

龍太には、平成元年に書かれた『ふたりの場合』など蛇笏を論じた幾つかのエッセイがある。これらのエッセイのポイントは、漂泊の詩人でありながら根底に根深い望郷のおもいがあった芭蕉と、定住土着の人でありながら生涯旅を夢みつづけた浪漫のひとでもあった蛇笏とでは、一見生き方が正反対に見えるが、漂泊と土着とが表裏皮膜のものとの見方からすれば、二人の生き方には重なり合う部分があり、蛇笏が芭蕉を尊敬し得たのもその点にあるということである。
そして、龍太は、
葉むらより逃げ去るばかり熟蜜柑 蛇笏 涸れ滝へ人を誘ふ極寒裡 〃 荒潮におつる群星なまぐさし 〃
などの蛇笏最晩年の諸作にみられる「作品のなまなましさ」、「老い難い詩情の憂心」は、蛇笏の胸中にあった漂泊への想いから生まれたものと指摘している(『俳句の地方性と土着性と』)。
蛇笏は、故郷に定住、土着しながら、最晩年に至るまで、内面に定住と漂泊という相拮抗する要素を抱えていた。
夏雲群るるこの峡中に死ぬるかな 蛇笏
この句は、そのような作者の内面の在りようを端的に感じさせる作品である。下五の「死ぬるかな」は、故郷に定住、土着の生涯を送るであろう自らの行く末を見通した上で、そこに意志的なものを込めた措辞である。この句の気息から窺える作者の感情は決して平坦なものではなく、内面の鬱屈を一気に吐き出したような激しさがある。生涯離れることのない故郷に対する愛憎が、掲出句の激しい気息となって表れているのだ。
一方、龍太俳句についてみると、初期には、
野に住めば流人のおもひ初つばめ(昭和24年)
など、故郷に対する否定的な心情がストレートに表出された作品がみられるが、定住、土着の歳月を経るにつれて、故郷の風土に対する親しみや土着者としての幸福感が表出された作品が主調音となってきている。
なにはともあれ山に雨山は春(昭和62年)
句集『遅速』所収。この句で詠われているのは、春を迎えて、あたたかい雨が眼前の見慣れた山々に降り注いでいる景である。「なにはともあれ」との緩やかな声調には、起伏を経ながら重ねてきた定住、土着の歳月を肯う心情がある。来し方を肯いながら、春の雨が降り注いでいる眼前の山々を眺めている。この句には、定住、土着する故郷にあっての至福の思いが滲み出ている。
このような故郷に定住する幸福感が滲み出た作は、句集『忘音』所収の、
子の皿に塩ふる音もみどりの夜(昭和41年)
などを先蹤として、
涼新た白いごはんの湯気の香も(昭和53年)
山住みの奢りのひとつ朧夜は(昭和60年)
など、最後の句集『遅速』に至るまで数多く見られる。また、
水澄みて四方に関ある甲斐の国(昭和49年)
梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬(昭和52年)
甲斐の春子持鰍の目がつぶら(昭和58年)
などの「甲斐」という旧国名を活かした作にも、土着者の至福感が表れている。
同様の心情の表出は、散文にもみられる。
「山住みの愉しさをひとつあげよ、といわれたら、私は躊躇することなく「茸採り」と答えたい。」(『山居春秋記』平成5年)
「まさに平凡な、そして平穏そのものの農山村。いまの私にとっては、これがなによりも有難いのです。」(『わがふるさと境川は』平成5年)
以上述べてきたように、いずれも故郷に定住、土着する生涯だった蛇笏、龍太の故郷に対する心情には、特にそれぞれの円熟期において大きな隔たりが生じている。
他方で、龍太には、
春めきてものの果てなる空の色 蛇笏
いきいきと三月生まる雲の奥 龍太
など、意識的なものかどうかは別にして、蛇笏の作品との響き合い、唱和を感じさせる作がある。俳人龍太の骨格を形作ったのがまず第一に蛇笏だったことを、これらの作品は示しているのだろう。
大岡信は、日本詩歌の生成の場として、さまざまな規模と形における「うたげ」というものが占めていた位置、役割の大きさを指摘し、俳句の結社もその表れの一つとしている(『うたげと孤心』)。
しかし、龍太の句を育んだのは、俳句結社「雲母」という「うたげ」の場よりも、蛇笏の作品との一対一の対峙だったように思える。
冷やかに人住める地の起伏あり 蛇笏 大寒の一戸もかくれなき故郷 龍太
掲出の蛇笏作は句集『春蘭』に収められており、昭和21年作。一方、龍太作は句集『童眸』に収められており、昭和29年作。それぞれの句が作られたときの年齢は、蛇笏61歳、龍太34歳。いずれの作も、いわゆる「後山」からの眺望が契機になっていると思われ、定住する故郷の全貌が作者の視野の中にある。
昭和55年の対談『蛇笏の文学と風土』の中で、龍太は、この二句を比較して次のように発言している。
「(両句を)比較すると、「人住める地の起伏あり」という作品の恰幅がよくわかると思います。・・・俳句の場合は季語、季題というものがあらわに句に見えているうちはまだ二流だ・・」
両句の優劣は兎も角として、この発言から窺えるのは、龍太の句は、蛇笏の「冷やかに」の作を「屈強の山」として意識しつつ、蛇笏の作との詩心の響き合いの中で育まれたのではないかということである。
そして、この二句を並べてみると、両者の間で受け継がれたものと両者の詩質の違いが、ともに浮かび上がってくる。
両句とも、一望のもとに広がる故郷の風景に自らの思いを重ねている点では共通している。
蛇笏作の「冷やかに」は、人家の点在する故郷の起伏からの感受であり、加えて、その起伏には、自らを含めそこに定住、土着する同郷の人々への深々とした想いが託されている。
一方、龍太作は、眼下にした真冬の故郷の印象を澱みなく言い切って、その迸るような声調には、定住の決意が定まった作者の内面が窺えるとともに、表現者としての意志、意欲が表れている。
蛇笏の沈みがちな心情は故郷の起伏に寄り添っている。これに対して、龍太は、若々しい意欲に溢れ、澄明な寒気の中にあって、故郷の眺望を我が物にしている。
以上のような両句の違いには、当然のことながら、句が作られた当時の両者の年齢、経てきた歳月の厚みの違いも反映しているだろう。
冬の風人生誤算なからんや 蛇笏 冬青空人に誤算は常のこと 龍太
逝くものは逝き冬空のます鏡 蛇笏 去るものは去りまた充ちて秋の空 龍太
掲出の諸作は、非常に類似したモチーフの作であるが、蛇笏の「暗」に対して龍太の「明」と、句の纏う情調の明暗は対照的である。龍太作は、先行する蛇笏の作に密かに唱和したように思える。独断を承知で言えば、龍太は、蛇笏作を十分意識に置いた上で、作句に当たって、蛇笏の作の「暗」の情調を、「明」の情調に転じようと試みたのではないだろうか。
これらの作については、以前に取り上げているので詳細な鑑賞は省略するが、ここでは第三句、第四句について多少付言しておきたい。
第三句(蛇笏作)には、逝くものが逝った後の非情なまでの冬空の澄みがあり、人間的なぬくもりはない。「逝く」は必ずしも死を意味する訳ではないが、この句において「行く」や「往く」ではなく、「逝く」と表記した作者の胸中には、戦争や病気により相次いで早世した三人の子息のことや、前年(昭和二十七年)に亡くなった義弟汀波のことがあったはずである。「逝くもの」を偲びつつ、蛇笏はひとり冬空の下に佇んでいる。冬空は澄み極まりて、その孤心を慰める術はない。孤心の表出という点で、辞世ともいわれる最晩年の作
誰彼もあらず一天自尊の秋 蛇笏
の先蹤をなす作品だろう。
一方、第四句(龍太作)には、秋空の爽やかな澄みに加えて、どことなく人臭さがある。
以上の作品の対比から見えてくるのは、蛇笏、龍太のそれぞれの作品の詩情の違いとともに、龍太が、蛇笏作品からいかに多くを学び取り、詩心を響き合わせ、それを自らの作品の血肉としていったかということである。
蛇笏忌の空屈強の山ばかり(昭和54年)
龍太の目には、蛇笏の作品が「屈強の山」として立ちはだかっていた。前掲の「冷やかに」の作などはその中でも龍太の目に立ちはだかった高峰の一つだったと思う。
メギ科の多年草。北海道南部、本州・四国の丘陵や山麓、山間の渓谷などに自生する。晩春の頃、茎の先に淡紫色の花を下向きに咲かせる。四枚の花弁には距(きよ)という管状の突出部があって、その形が船の錨に似ているところから、この名がある。
