廣瀬直人の俳句(5)

一木と一会の刻を冬桜                直人

花咲き盛り一塊にして一樹            〃

今朝秋のかりそめならぬ樹と思ふ      〃

  いずれも句集『風の空』に収められている。

 前回鑑賞した「爛漫」の句は咲き盛っている「山桜」とともに過ごす時間の豊さに焦点があるのだが、掲出の第一句では、さらに踏み込んで、対象とともに過ごす時間の豊さへの意識が、今生の一刻一刻を共に過ごす「一木」との「一期一会」の思いに集約されている。その思いは、人生の年輪を刻んできた作者の胸中に、無常迅速の思いとともに、自ずから定まってきたものだろう。「一期一会」は、「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」の意であり、もともとは茶道の心得である。したがって、通常は、この語から茶会を始めとする人との交友を念頭にすることになる。例えば、桂信子の逝去に際しての追悼句

くつきりと一会ありけり鳥雲に       直人

は、生前の桂信子との「一会」がモティーフになっている。一方、前掲の作においては、「一木」との「一会」が詠われている。同じ風土に生きる作者と「一木」とが、人対モノというような行きずりの一方的な関係にあるのではなく、かりそめならぬ縁で結ばれているとの認識が、「一会」の思いの根底にあり、その思いが「一」のリフレインにより凝縮されて表現されている。「一期一会」の対象が、人だけでなく、樹などの自然へ広がってきているところには、アニミズム的な要素もあり、そこには、近代以前の日本人の伝統的な自然観が横たわっているようだ。

 第二句には、「美濃路の桜―「俳句朝日」吟行会ー六句」との前書きがあり、旅中の作であることが分る。「一会」の語は用いられていないが、旅先での桜との「一会」による心の昂揚が、破調を伴う強い気息となって表れている。

  第三句においては、立秋を迎えた朝、日頃見慣れた庭先の「樹」にしみじみと見入った作者が、この「樹」とのかりそめでない縁を感じ取っている様が思われる。これまで「樹」と共に過ごしてきた歳月とこれから「樹」と過ごすであろう年月への思いが、作者に、この「樹」との縁が「かりそめ」でないとの感慨を抱かせた。

  以上の作品における作者と「一木」や「樹」との関わりは、一方は「一会」を意識させるような、日常から少し隔たった存在であり、他方は、作者と同じ風土に生きる日常身辺の存在であるが、共通して言えるのは、いずれも、対象との「かりそめ」でない関係を意識しての作ということである。

全貌といふ初富士に会ひにゆく       直人

  この句の弾むような声調には、年が改まって初めて「全貌」の富士を見に行く作者の心の昂揚が紛れなく表れている。「という」との措辞は、人伝に聞いただけで、まだ作者の眼前にその山容が現われていないことを思わせる。作品の焦点は、初富士そのものにはなく、初富士に会いにゆく作者の心の昂りにある。直人俳句において、富士は、

歳晩の裾を一気に八ケ嶽             直人

鳥雲に入る駒ケ嶽仁王立ち           〃

の八ケ嶽、駒ケ嶽などとともに、故郷の山河を形作る山であり、これまでも何度となく目にし、親しんできた山の一つであろう。しかし、前掲句からは、時に応じて様々な表情を見せるこの山に、「一会」の思いで接しようとしている作者の心ばえがみえる。

 作句において写生は基本中の基本だが、一方的に描出しようとするのではなく、対象に対する思いを深めていくことの大切さを、これらの句は示している。

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