蕎麦には、初夏に蒔き晩夏に開花するもの(夏蕎麦)と、立秋前後に蒔き秋に開花するもの(秋蕎麦)があるが、俳句では秋の季語。白又は淡紅色の五弁の小花が密に総状に咲く。
掲句は秩父の丘陵地を歩いたときの作品。いくつかの札所を巡った記憶もある。秋の日は西に傾いて、間もなく暮れようとしていた。雲が、一日の温もりを集約したかのように、日差しを含んでほっこりと浮かんでいた。平成15年作。『河岸段丘』所収。
蕎麦には、初夏に蒔き晩夏に開花するもの(夏蕎麦)と、立秋前後に蒔き秋に開花するもの(秋蕎麦)があるが、俳句では秋の季語。白又は淡紅色の五弁の小花が密に総状に咲く。
掲句は秩父の丘陵地を歩いたときの作品。いくつかの札所を巡った記憶もある。秋の日は西に傾いて、間もなく暮れようとしていた。雲が、一日の温もりを集約したかのように、日差しを含んでほっこりと浮かんでいた。平成15年作。『河岸段丘』所収。
キク科の多年草。日当たりのよい低山の草原や林縁に自生し、晩夏から秋にかけて、50~80センチ程の直立の茎に黄色の小頭状花をつける。ベンケイソウ科のキリンソウ(夏季)に花の趣が似ていて、秋に咲くことからこの名があるが、キリンソウとは全く別種の草花。別名泡立草。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉 芭蕉 天和元年の作。「茅舎の感」との前書きがある。野分の夜を独り過ごす独居の侘しさが滲み出ている作品である。八・七・五の破調だが、初句の字余りは野分の中で千々に破れる大揺れの芭蕉を彷彿させて効果的だ。前年の冬、芭蕉は、それまで住んだ江戸市中日本橋から深川の杉山杉風の下屋敷に移った。この年の春、門人李下が贈った芭蕉を庭に植え、芭蕉は青々と葉を茂らせた。門人たちはその草庵を「芭蕉庵」、主を「芭蕉翁」と呼ぶに至ったという。この句は、天和2年3月刊の『武蔵曲』に、それまでの「桃青」に替えて、「芭蕉」と署名して掲載され、「芭蕉」の号を披露する句になった。
当時は芭蕉とその門下のみならず、一般的な俳壇の風潮として、漢詩・漢語趣味がもてあそばれていた時代、いわゆる「漢詩文調時代」に当たり、上掲の「野分」の句以外にも、 櫓の聲波ヲうつて腸氷る夜やなみだ 芭蕉 髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ 〃 などの漢語調の作がある。「野分」の句は、外面の措辞や語調の模倣よりも、杜甫や蘇東坡の詩情への共感・反芻の中で、自己の生活を詩化し、侘びの詩情を確立した点に意義のある作品と言える。
後に芭蕉は、初五の字余りを避けて、 芭蕉野分盥に雨を聞く夜かな 芭蕉 と改めたという。初案の漢詩文的なリズムを抑制しようとの意図があったと思われるが、諸氏の言うとおり、これは全くの改悪だろう。山本健吉が評するように、「芭蕉野分」と字余りの競いをそいでしまったら、一句の生命も死んでしまうのだ。語調を整えて、却って句の勢いが死んでしまうとは、現代の実作者でも経験のある改悪ではないだろうか。
「秋の(夕)暮」は、『枕の草子』以来その寂しげな風情が賞されてきた伝統的な季題。
掲句は、伝統的な季題の情趣に凭れるのではなく、それを逆手にとって、「秋の暮」の貝の寂しさを自在に表現した作品。貝が舌を出して他の貝に寄っていくことなど、実景としてはありそうもないが、一読貝の気持ちが分かったような気になるのも、「秋の暮」という言葉のもつ力だろう。『俳壇』2023年10月号。